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豊臣秀吉の「キリシタン弾圧」は日本を救う政策だった!

豊臣秀吉の「キリシタン弾圧」は、なぜ行われたかの真相を探る。

豊臣秀吉公は、私の地元でも信長公・家康公とあわせて「3英傑」と言われる人である。しかし、印象が悪い人が多いように思う。「キリシタン弾圧」「朝鮮出兵」など「切り取られた歴史」により評価を下げられている人の一人と思う。「キリシタン弾圧」の真実を追った。是非、ご覧を。

1.豊臣秀吉の「バテレン追放令」は「国民保護」のためであり「迫害」ではない!

豊臣秀吉」と聞いて、どのように感じられるだろうか。私の地元愛知県で言えば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は地元の「3英傑」として英雄視されている。そしてその功績は間違いない。

豊臣秀吉公
豊臣秀吉公

しかし一方で、秀吉というと、「キリスト教弾圧」の印象を持っている人が多いのではないのだろうか。そして「朝鮮出兵」もあったことから、特に「悪い印象」を持つ人も多いと思う。「秀吉は侵略戦争をした」と名古屋の地元の人でも言う。

しかし、そこにはまったくの隠されている真実がある。結論から言えば、秀吉公は闇雲に「キリスト教の弾圧」をしたわけでもなければ、ましてや「侵略戦争」など、まったくしていなかった。国家・国民を考えた上での重要な「外交手段」であった。むしろ、非常に自制的にかつ、日本という国家を守る上での決断としての行為であった。
あまりにも誤解が多すぎる「豊臣秀吉公」の真実を「バテレン追放令」を通じて、詳しく見ていきたい。

2.「バテレン追放令」の内容から見える当時の状況

一番はっきりするのは「バテレン追放令」そのものを見るとよく分かる。正直、まったく「ぬるい」ものであり、キリスト教の布教の禁止が目的などとはまったくの間違いであることは文面を見るとよく分かる。もっと言えば、正確には「キリスト教の禁止をしていない」

下記に「天正15年(1587年)6月18日」の「お触れ」の現代語訳を要約して示す。

秀吉の「お触れ」現代語訳抜粋
  1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
  2. その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
  3. 大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
  4. 大名は、キリスト教徒になるには、秀吉の許可を得ればできることとする。
  5. 知行地がこれより少ない者は、宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
  6. キリスト教徒については、・・・天治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
  7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置くことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
  8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
  9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
  10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。
  11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。

    ~Wikipedia より現代語訳を「要約」~

見てのとおり、明らかに「キリスト教」そのものを禁止しようとはしていない。むしろ、非常に慎重であり臆病なくらいである。

ここで、特に重視したいのが「1」と「10」である。
「1」ではとにかく、「キリスト教を禁じていない」ことは明白である。その後の「2」であるとおり、あまりに大名がキリシタンとなることによる領民の弊害が大きいので、大名については「許可制」とした、というものである。しかも、それもある一定以上の大名のみで、それ以外の大名には許容した。いかに当時の日本が「宗教」に寛容であったか、それを逆に物語っている。

そして特筆すべきが「10」である「日本人の人身売買を禁ずる」とある。すなわちそれが行われていたことが背景にある。
今の日本で言えば、「拉致問題」である。いや、それよりひどい。国内のキリシタン大名は「南蛮」からの輸入品の富のために、あろうことか、領民を売り飛ばしたという記録は枚挙にいとまがない。完全な「奴隷貿易」である。実は、これが秀吉の怒りに火を付けた最後の一線だったと言われる。秀吉はあまりにひどい九州の実情を見て驚き、手を打ったのである。激怒したとも言われる。
「イエズス会」というと「フランシスコザビエル」という「善人のイメージ」があるが、実際には全く違う。以降で述べるが、「イエズス会」はヨーロッパから出て「布教」という名の侵略を行いザビエルはその大幹部だった。実際日本でキリシタン大名と組んで「奴隷貿易」を行っていたのである

もう一つ、その次の日の日付で出されたのが「伴天連(バテレン)追放令」と言われる。これも見ていきたい。
「天正15年(1587年)6月19日」の「吉利支丹伴天連追放令」の現代語訳を要約して示す。

「吉利支丹伴天連追放令」現代語訳抜粋
  1. 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
  2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
  3. キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
  4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること
  5. いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。

    ~Wikipedia より現代語訳を「要約」~

この「追放令」で私が最も強く感じたのは、豊臣秀吉公の「国家観」である。この時点で「日本」という「国」単位で物を考え、「1.日本は自らの神々に護られている国」とあるのは、感動した。むしろ今の日本人こそ、これを見ることが重要なのではないだろうか。
そして、その「国家観」をベースにした上で「2」や「3」で規制をかけているが、「4」「5」ではしっかり「経済」のことと「信仰の自由」も述べている。決して今にも引けを取らない「先進的な」「追放令」といえるのではないだろうか。

これほど優しい「追放令」があるだろうか?「豊臣秀吉がキリスト教徒を弾圧した」と言う人は、この二つの文を是非読んで欲しい。「伴天連」という存在が何をしていたか、それに対して国のリーダーとしての対応をせざるを得ないところまで来ていたことを知るべきである。
そして、文にあるとおり、これでは「弱い」と言わざるを得ない。実際に大きな効果を生まなかった。「伴天連」といわれる特に「イエズス会」を中心としたカソリック勢力はこれでは帰らず、確信的に日本を混乱させようとしていたのである。

3.「バテレン追放令」の頃のヨーロッパの状況

二つのプロテスタント勢力
二つのプロテスタント勢力

この頃のヨーロッパ情勢に触れたい。
この頃の日本とて、世界史とは無縁ではなかった。安土・桃山時代とはいえ、ヨーロッパを中心とした白人社会の影響は受けていた。それが如実に表れたのが「秀吉の伴天連追放」と言えるかも知れない。実は、織田信長の時代からも「イエズス会」の陰は日本の政治に大きくちらついているが・・・。

この頃のヨーロッパは相変わらず戦争だらけだが、一つの大きなムーブメントが起こっていた。「宗教改革」である。宗教改革の震源地とも言えるドイツ地方では、

ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに対して1517年、ルターが『九十五ヶ条の論題』を発表して批判したことからドイツの宗教改革が始まった
悪の幹部「フランシスコ=ザビエル」
悪の幹部「フランシスコ=ザビエル」

といわれる。1517年から始まったと言われる宗教改革は、基本的にはキリスト教のカソリックに対する抵抗(プロテスト)であった。長い年月を経て1555年の「アウグスブルグの和議」により一応の決着を見るが、キリスト教は「カソリック」と「プロテストタント」と明確に分かれる。はっきりとした対立であった。

そして特に「カソリック勢力」はその布教を海外に求めた。その代表格の一つが「イエズス会」だったのである。なお、有名なフランシスコ=ザビエルはイエズス会の創設者の一人で、大幹部である

そして「布教」といえば聞こえがいいが、完全な「植民地支配」のための航海だった。「大航海時代」という名に書き換えられているが、16世紀は「帝国主義の前身」ともいえる時代だった。実際にアメリカ大陸も、アジア諸国もことごとく植民値化されている。象徴的なのが「フィリピン」である。「フィリピン」の名称はスペインの皇太子「フェリペ」(後のフェリペ2世)から来たものである。スペインが1564年に領有を宣言し19世紀末までスペイン領だった。
日本もヨーロッパのキリスト世界に飲まれかねない、危険な状態だったのである。

なお、その後三十年戦争という悲惨な戦争(1618年~1648年)も起こる。「カソリック」と「プロテスタント」という二つのいがみ合いは、現在にまで至るのである。

4.当時のスペイン・ポルトガルの状況と狙い

スペイン・ポルトガル両国は1494年、世界を分割支配することで合意した「トルデシリャス条約」を結んでいる。さらに1529年「サラゴサ条約」により、両国は、「世界二つに分けてを支配する」ということを本気で考えていた。

トルデリシャス条約にみる世界統治計画
トルデリシャス条約にみる世界統治計画(Wikipedi地図に加筆)

この条約を見るにつれ、いつも思う。キリスト教国(ヨーロッパ諸国)のあくなき「征服欲」はどこまで続くのだろうかと。結局、今も変わっていないように思う・・・。

奴隷船
奴隷船

確かに、これらのラインはそれほど厳格には運用されていないし、今に考えれば「荒唐無稽な条約」とも見えるかも知れない。しかし、実際に植民地になった国は多くある。南米で「スペイン語」が母国語の国が多い理由はそこにある。武力により母国語が奪われ「布教」という名の「侵略」が続けられた。世界に「カソリック」が多いのは当時の影響が色濃く反映されている。全く笑えない「世界征服計画」であった。
そしてその後の、「海洋国家としての新興国」であるイギリス・フランス・オランダなどは、これになかなか対抗できなかった。

今では考えにくいが、それほど「スペイン」「ポルトガル」の勢力は16世紀当時強かったのである。なお、その後のヨーロッパのキリスト教国も同じ行動をした。この時点で、日本を含めたアジア諸国が狙われていたのは間違いない。日本が植民地になる可能性も十分にあったのである。

5.「悪」とされる秀吉公は、日本を救った英雄だった!

とにかく「豊臣秀吉公」は「悪」とされる。その理由で言われるのが「キリシタンの弾圧」「朝鮮出兵」かと思う。

大阪城公園の豊臣秀吉像
大阪城公園の豊臣秀吉像

しかし、まず「キリシタンの弾圧」についてはここまで述べてきたとおり、極めて自制的に行った。完全に悪いのは「宣教師側」だった。しかも、「個人個人の素行が悪い」レベルではなく、国家としての「侵略」を意図しての行動だった。

この後「サン・フェリペ事件」という大事件が起こり、秀吉公の怒りが頂点に達っしたとされる。この時にスペイン船員から「布教はスペインの侵略の手段」ということが明確になったといわれる。それが、秀吉公をして「キリシタンの弾圧」に踏み切った理由である。しかも「カソリック」は取り仕切ったが、プロテスタントのオランダとは貿易をしている。つまり「キリスト教」を禁じたのではない。「カソリック」をターゲットに制限をかけた。
秀吉公の「キリスト教徒迫害」の象徴のように言われるが、秀吉公はそれほど視野の狭い人間ではない。「乗組員の発言に激怒した」といわれるが、当時行政のトップ中のトップ(五奉行)であった「増田長盛」に実見させるなど慎重な対応をしている。
まだ「日本」という単位での意識がない中で、見事な対応と言うべきと思う。

宣教師ヴァリニャーノ
宣教師ヴァリニャーノ

なお、付け加えておくと、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノは、信長公にも秀吉公にも謁見している。そのヴァリニャーノが本国に充てた報告に、

『日本は何らかの服従事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、国民は非常に勇敢で、しかもたえず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからである。』

という書簡を送っている。いかに、日本が「占領」の危機にあったか、そして当時の為政者が適切に対応したかが見える。
宣教師に対して軍備を見せつけ、国を守った。秀吉公、そして信長公は、迫りくる世界に対してかなりの警戒をもっていたことは間違いない。

秀吉公を「悪」とするのは、次の「朝鮮出兵」にあると思われる。これを快く思わない朝鮮人(北朝鮮・韓国)が日本の歴史にケチを付けてきた結果が、日本人にまで染みついてしまった。
ここでは詳細は述べないが、「朝鮮出兵」は朝鮮を攻めるなどという目的はまったくない。なぜなら「朝鮮」に攻めてもメリットが全く無いからである。実は、当時の支那が先ほどの「ヨーロッパの植民地」の標的となろうとしていた。その布石と考えるのが有力説である。「朝鮮出兵」ではなくスペイン・ポルトガルの侵略に備えるための「支那(China)出兵」なのである。

先述の通り、当時のポルトガル・スペインの「覇権主義」は世界を席巻していた。当時のアジアそして日本は「植民地化」への危険は十分に有り、秀吉公はそれを知っていたと考えるのが、その行動を見ていくともっとも「蓋然性」(可能性)が高い。それは、信長公も当然意識していたし、その後の家康公も理解していた。

6.豊臣秀吉公は、日本を守った「英雄」だった!

豊臣秀吉公の印象は、地元の私でもあまり良くなかった。「織田信長」と「徳川家康」に挟まれ、「人たらし」でトップまで上り詰めて、無謀な「朝鮮出兵」をした人、という印象だった。
どうしても、「信長」「家康」と比べて「天下人」という目で見ることができなかった。

しかし、このように「伴天連追放」の状況やその「追放令」からみると、如何に全体を見据えた戦略を持った人だったか、垣間見える。そしてその視点は「国全体」にあり、更に「世界」も見据えていた。
学校の歴史では、執拗にその事実を隠す。どうも「キリスト教=正義の味方」という前提が出来ているようである。そして「朝鮮のいいなり」ということもあり、秀吉公は悪く言われ続けた。そしてそれが染みついてしまった。

学んでみて自分に「秀吉公」を理解するだけの想像力と知識が全く欠けていたことを気づかされた。「伴天連追放令」を見て、これほどまでの「国家観」と「世界観」があったことを思い知らされた。是非、日本を守った英雄の一人として、一人でも多くの日本人に知ってもらいたい。

私のすぐ近所は秀吉公生誕の地であり、秀吉公を祀る「豊国神社」がある。日本と日本人を守った先人に再度感謝しながらお参りする日々である。

名古屋市中村区の豊国神社
名古屋市中村区の豊国神社

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コメント

    • のん
    • 2020年 10月 25日

    秀吉が天下をとった後の行動は不可解なものが多い印象でしたが、印象変わりますね。豊臣秀吉に対する評価がイマイチなのは、徳川幕府のネガティブキャンペーンのせいかもしれませんね~。

      • てつ
      • 2020年 10月 29日

      私も良いイメージが少なかったけど、秀吉の本当を見るとまったく印象変わるよぅ。

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