『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり』と詠んだ上杉鷹山の言葉に学ぶ
有名な言葉かも知れないが、江戸時代で屈指の名君と言われる米沢藩主の上杉鷹山の言葉を見てみたい。「為せば成る、為さねばならぬ何事も~」と短歌の形になっている言葉は、現在を生きる我々にも心に染み入る良い言葉と思う。是非、ご一読を。
1.為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」という言葉は、知られているかも知れない。しかし、全文は短歌になっていて、「5・7・5・7・7」になっている。
全文は以下の通り。
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり
上杉鷹山
上の句である「為せば成る、為さねばならぬ何事も」という言葉を、私は幼少の頃に「ロボコン」の歌の歌詞で出てきたことを覚えている。
しかし、当時は意味を間違えていた。後半の「為さねばならぬ何事も」というところを、「しなければいけない何事も」と理解していた。子供ながらに「なんでもしなければいけないんだ」「厳しい歌だな」と思った。
しかし、これを詠んだ上杉鷹山の言葉は、さらに厳しいと言っていいと思う。
上の句で
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
と言っている。これは「やればできるし、やらなければ何も出来ない」という、ある意味で当たり前の事をあえて伝えている。そして、下の句では
「成らぬは人の、為さぬなりけり」
と伝えている。これは「できない、ということは、人が『やらなかった』に過ぎない」、と切って捨てているのである。「できるまでやらなければ意味が無い」という、非常に厳しい言葉とも取れる。
確かに厳しい言葉かも知れないが、幼少の頃に誤解して聞いていたとしても、江戸中期の大名である上杉鷹山のこの言葉(短歌)は、今も深く心に残っている。
2.上杉鷹山とは?
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上杉鷹山は、江戸時代中期の人で寛延4年(1751年)に生まれ、文政5年(1822年)まで生きた人である。
出身は九州(日向国高鍋)だが、縁あって米沢藩に迎え入れられ、17歳にして第9代の米沢藩主となる。
米沢藩は、戦国時代の英雄上杉家を祖先とするが、関ヶ原の戦いで徳川方に味方しなかったためその領土は小さくなってしまい、それが米沢藩となった。
上杉鷹山は養子として迎え入れられたが、情熱を持って藩政に当たり、米沢藩を大きく立て直し繁栄させた。江戸時代屈指の名君、とまで言われるほど米沢藩を豊かにし、正しい治世を行った人である。
では上杉鷹山は何を行ったか。簡単に言えば、
・ 質素倹約
・ 産業の開発(養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など)
・ 学問の奨励
・ 子供・老人を大切にする「支給」を実施
等々にまとめられる。
今の政治家にも勉強して欲しいような内容ばかりの政治を行った名君である。単に質素倹約だけに努めるのではなく、その後の未来を見据えた「投資」とも言える、教育・産業育成・社会保障、といった面にまで行き届いた政策を行った人だった。
3.上杉鷹山と「為せば成る~」
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取り上げた「為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり」はもともと、戦国の武田信玄の言葉から来ているという説がある。
武田信玄は、次のように歌ったという。
為せばなる 為さねば成らぬ 成らぬ業を 成らぬと捨てつる 人の儚さ
武田信玄
戦国の英雄、武田信玄の歌った言葉は、確かに上杉鷹山が参考にしたかも知れない。しかし、上杉鷹山の人生・功績を見れば、たとえその「言葉」を借りたとしても、それを実践した人の言葉として、何ら色褪せることは無いと思う。
そして、武田信玄が「人の儚さ」と嘆き、ある意味捨てているところを、上杉鷹山は「それではいけない」と言わんばかりに「成らぬは人の、為さぬなりけり」と強く訴えているところが、上杉鷹山の人となりが感じられる。
4.『成らぬは人の、為さぬなりけり』!
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心に染み入る言葉は、江戸時代であっても同じである。それが「短歌」の形で残っている日本は、素晴らしいと改めて思う。
そしてあえて今の自分に置き換えるのなら、上杉鷹山の言葉の中で下の句を心に強く持ちたい。
「為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり」
「出来ないではない、『やらない』である」、と、江戸の名君が言っている。
現代を生きる自分として、心にしっかりとどめて現代を生きていきたい。
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