- 2019-10-12
- 特集_ウェストファリア体制
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国際政治の始まり、といわれる「ウェストファリア体制」を見る。
「ウェストファリア条約」という言葉は、世界史を学んだ人なら聞いたことはあると思う。しかし、その歴史的意義はなかなか授業では教わらない。世界最初の国際会議と言われるが、日本で言えば江戸幕府の設立時であり意外に古くない。そうした時代背景を含め、「世界最初の国際秩序」と言われる「ウェストファリア条約」とその背景について、シリーズで取り上げる。是非ご覧を。
➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【1】ウェストファリア条約とは
➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【2】30年戦争とその背景
➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【3】ウェストファリア条約とその後の世界
(動画でのポイント解説)
1.ウェストファリア条約とは
ウェストファリア条約とは、1648年に結ばれた条約である。「世界最初の国際条約」と呼ばれるものであり、近代世界史(ヨーロッパ史)において非常に重要な条約である。なおその後の体制を「ウェストファリア体制」といい、現在のヨーロッパ史を知る上で、それを理解せずしてはあり得ないと言われる。
ウェストファリア条約が結ばれる過程で、ヨーロッパ世界でまさに「国際法」が形成された。もっと言えば「国家」そのものが定義されたと言える。
ウェストファリア条約が結ばれた背景として、「三十年戦争」がある。この戦争がヨーロッパ全体を巻き込み悲惨な状況を生み出した。その主戦場となったドイツ地方では、人口が1800万人から700万人にまで減ったと言われる。戦争は悲惨を極めた。人を人とも認めない信じがたい虐殺も横行した。そしてその後の秩序の構築のために結ばれたのが「ウェストファリア条約」である。
ウェストファリア条約について詳しくは後の記事で述べるが、ここで触れておきたいのは、このウェストファリア条約をもって、長く続いたドイツ地方を支配していた「神聖ローマ帝国」がほぼ無力化したことである。
ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われる。それほどまでに、神聖ローマ帝国は有名無実化し、その支配下にあった「領邦」が国家として認められることとなった。「領邦国家」とも言われる。
そしてそれは、今の「ドイツ」地方の完全な解体であった。ウェストファリア条約はいろんな側面を持つ条約であるが、その効果を最も端的に現しているのが「神聖ローマ帝国の解体とドイツ地方の『領邦』国家の乱立」であった。
ウェストファリア条約は、初の国際条約でありそれまでの戦争の反省からいろいろな成果が上げられたが、すでにそのスタートから「ドイツ地方の分裂」という争いの種を持っていたのであった。
2.当時の世界情勢とヨーロッパ
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ここで、三十年戦争とウェストファリア条約が結ばれた頃の、当時の世界を見てみたい。
三十年戦争とは、ヨーロッパの各国の列強が介入する大戦争となったであった。ただし、「世界史」というとヨーロッパがすべてのように学ぶが、当時の他の地域の状況を見ると、ヨーロッパ列強といってもあくまでヨーロッパ「地方」のことであった。三十年戦争も大戦争ではあったが、ヨーロッパの中でもドイツ地方での宗教対立に端を発し、その後、その周辺諸国が介入したものだった。
特にヨーロッパ諸国がアジア(西アジア)に行けなかったのは、「オスマントルコ帝国」という強大国家にはとても敵(かな)わなかったからである。
また、イラン地方(ペルシャ半島)においても強大なイラン帝国(サファヴィー朝)が存在していて、各国でそれぞれの発展をしていた。
そして、日本は江戸幕府が出来たばかりの頃である。日本は徳川幕府の下で平和の道へ入り始めた頃であった。
しかし、ヨーロッパは悲惨な戦争を繰り返し、国力を落とす一方であった。
3.戦争にあけくれる欧州
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近代ヨーロッパ史において、私が勝手に定義した3大戦争は、
② 7年戦争(1753年~1763年)
③ フランス革命とナポレオン戦争(1789年~1815年)
この3つの戦争が、その後のヨーロッパ史を大きく変えていく。そしてそれは、産業革命をいち早く経たヨーロッパ諸国を世界へと向けさせて帝国主義に向かわせていくことになるのである。対照的に、日本はその間にそのような戦乱にさらされない体制である「江戸幕府」を構築し、非常に豊かな国を作っていた。
ヨーロッパの世界はとにかく戦争に明け暮れた世界である。この頃の年表を並べただけでも、日本がどれだけ平和を維持してきたかが分かる。
また、その戦争も悲惨を極めている。三十年戦争の主戦場は今の「ドイツ地方」であるが、人口が1800万人だったのが三十年戦争の結果700万人にまで落ちたと言われる。ヨーロッパは「騎士道がある」という印象があるが、実態は悲惨な戦争を繰り返し戦争ばかりの歴史で、人口を激減させるような戦争を繰り返していて、全く発展していたわけではなかった。
三十年戦争の頃には、そうした悲惨な戦争に対する批判や風刺が顕在化している。添付した画像は有名な物だが、よく見てほしい。木につるされているのは人である。こうしてさらしている状況を見て、フランスの銅版画家ジャック=カロが描いている。本来は人を幸せにするはずの宗教が、逆に人をここまで残虐にしていたこと、そしてそれがヨーロッパの実態だったことをよく知ることは、現在を見る上でも重要である。
4.キリスト教の揺れ ~カトリックとプロテスタント~
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今回取り上げる「ウェストファリア条約」と「三十年戦争」は「最後の宗教戦争」と言われる。では、宗教戦争とは何か。これは日本人にはなかなか受け入れがたいが、端的に言えば「カトリックとプロテスタントとの意見の対立」である。
カトリックとは旧来からのキリスト教の考え方で、ローマ教皇を頂点とした現在でも最大の宗教派閥である。
一方、プロテスタントとはキリスト教の一派ではあるが、カトリックに対して抗議(Protest)することにから発足した別のキリスト教一派を指す。
このような構図の三十年戦争ではあったが、宗教はあくまで戦争の一つの要素にしか過ぎない。
結局は、「国」という概念がまだはっきりしない頃の戦争であっても、「宗教」はきっかけであり、本質は覇権争いに他ならなかった。
「宗教」は戦争を導き出す導火線という役割も担うこととなってしまい、それをはっきりさせたのがカトリックに反対するプロテスタントの出現であった。
詳細は次回に譲るが、主な宗教戦争はマルティン=ルターの「宗教改革(1517年~)」から顕在化する。ドイツで始まった宗教改革は、ヨーロッパ全体に大きな影響を与えた。「ルター派」はプロテスタントの一つの勢力である。その影響は諸国にも及び、フランスでは「ユグノー」と呼ばれ、また、フランスのジャン・カルヴァンのひろめた「カルヴァン派」、またイングランドにおける「国教会」もカルヴァンの影響を受けた「プロテスタント」であった。そして、それに対する「旧勢力」といわれるカトリックとの争いは、国そのものを大きく揺るがした。
いわゆる「宗教戦争」と言われる主な物は以下の通り。
② フランスのユグノー戦争(1562年~1598)
③ オランダ独立戦争(1568年~1609)
④ 三十年戦争(1618年~1648)
この中で①の「シュマルカンデン戦争」が重要であった。この戦争の結果「アウグスブルグの和議」(1555年)により禁止されていたルター派は認められ、プロテスタントは少しは認められるようになった。しかしそれは中途半場でそれが無視され続けてきたことが、宗教戦争を引き起こしていった。
戦争は悲惨を極める。
ヨーロッパでの戦争は、先に取り上げた物では全く足りない。挙げだしたらきりが無くほとんどずっと戦争ばかりしている、といってもいい。日本人には全く理解できないが、自国民に対するものも含めたその残虐さは筆舌に尽くしがたい。人を生きたまま皮をはいでさらす、といった行為は日常であった。「殺す」ことが目的はなく「苦しめて殺す」ことが目的なのである。
いまでこそヨーロッパ諸国は「人権」という言葉を多用するが、その理由はここにある。「人権」を定義しないといけないほどに、彼らは人を人と思わない残虐の歴史を持っているのである。日本にはまったくない現象であったと言える。
5.ウェストファリア体制とその後の世界
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ウェストファリア条約の後の体制を「ウェストファリア体制」という。これこそが、近代ヨーロッパを形作る最初の国際条約と言われ、そして今のヨーロッパを見る上でも重要と言われる。
「ウェストファリア体制」とは、端的に言えば「個々の国の単位で尊重し、国と国とのやりとりで紛争を解決していこう」ということと「個人の宗教は自由に」という方向であったといえる。逆に言えば、それほどまでにヨーロッパでは平気で個人を踏みにじり「国」という概念がないまま戦争に明け暮れていた。
それを整理したのが「ウェストファリア体制」であった。しかし理念としては確立したとしても、それは根付くことなくすぐに戦争に明け暮れるようになる。ただし、この「ウェストファリア体制」以後の戦争で決定的に違うのは、戦争の規模が「国」という単位となり、更に大きくなっていったことである。
次回記事以降で、「三十年戦争」・「ウェストファリア条約」についてより詳しく見ていきたい。
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