- 2019-10-26
- 特集_ウェストファリア体制
- コメントを書く
ウェストファリア条約の本質とその後の「ウェストファリア体制」に基づく世界を見る。
シリーズの最後である。
三十年戦争の後に結ばれたのが「ウェストファリア条約」である。それ以後の体制を「ウェストファリア体制」といい、ある学者によればこの「ウェストファリア体制」こそ現在も続くヨーロッパの根底のメカニズムである、という。
現在を知る上でも重要な「ウェストファリア条約(体制)」をまとめてみた。是非ご覧を。
➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【1】ウェストファリア条約とは
➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【2】30年戦争とその背景
➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【3】ウェストファリア条約とその後の世界
ページ目次
(動画でのポイント解説)
1.三十年戦争と「17世紀の危機」
三十年戦争はヨーロッパ特に、ドイツ地方に多大の爪痕を残した。人口は1600万人から600万人まで激減したと言われる。また、当時の戦争は傭兵によるものであり、それもあって戦争は終わることはなかった。戦争がなくなると傭兵の働き口がなくなるためである。
戦争の悲惨さはすさまじいものであり、数々の文献が残っている。絵画では、ロレーヌ地方(現在はフランス領、当時は神聖ローマ帝国領)のジャック=カロの描いた「戦争の惨禍」、小説ではドイツの民族小説家グリュンメルスハウゼンによる「阿呆物語」など、その戦争の残忍さを明確に描いている。
また、この頃のヨーロッパは宗教革命の後の大きな余波のまっただ中にあった。「17世紀の危機」といわれるほどに、各地で蜂起が起こり国は大いに乱れた。直接の原因は「小氷期(しょうひょうき):ミニ氷河期(Little Ice Age)」とも言われる気候変動と言われる。その気候変動により作物の不作があり、経済が乱れ人心が乱れた。歴史的には、「魔女狩り」がヨーロッパ全土で横行したり、イギリス(イングランド)は「ピューリタン革命」、フランスは「フロンドの乱」、スペインの「カタルーニャの反乱」などが「17世紀の危機」の具体例として挙げられる。
そしてその最たるものが「三十年戦争」であった。
それを経たことにより、逆に言えば、ヨーロッパにおいて「秩序」の形成の土壌が出来てきたとも言える。ヨーロッパは乱れに乱れ、疲れ切っていた国と人民にとって混乱を収拾することが大きな目標となっていった。
日本では、徳川幕府の開始時期でありヨーロッパと比較してあまりに平和裏に政治が行われていた頃であった。
2.ウェストファリア条約の「内容」
ページ目次 [ 開く ]
「17世紀の危機」と言われる中で最も悲惨な状況を生み出した三十年戦争を経て、ようやく結ばれた秩序がウェストファリア条約である。1648年に結ばれたものだが、実際には1644年から協議は始まり、なかなか決まらない中で戦争も続き、ようやく1648年に結ばれたという経緯がある。
厳密には、ドイツ地方の都市である「ウェストファリア」の二つの市「ミュンスター市」と「オスナブリュック市」で結ばれた「ミュンスター講和条約」と「オスナブリュック講和条約」の二つを合わせて「ウェストファリア条約」と総称される。
現在のドイツにおける「ウェストファーレン州」の主要の2都市である。
条約の締結には、神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した。初の「国際会議」と言われるゆえんである。
ヨーロッパ史において重大な転換期と言われるのが、この「ウェストファリア条約」の締結である。これにより、近代ヨーロッパが始まったと言われ、「世界最初の国際条約」「近代国際法の元祖」とまで言われる。
具体的な中身を見てみたい。大きく5つ挙げられる。
① 「アウグスブルグの和議」が再確認され、新教徒(プロテスタント)が認められた。
② ドイツ地方にいた300もの「諸侯」に大幅な自治権(立法・課税・外交等)が認められた。実質的に独立したものに近づき、「領邦国家」と言われる。
③ フランスがドイツ地域の「アルザス地方」の大部分を得る
④ スウェーデンはドイツ北部の「ボンメルン」などの地域を得る。
⑤ オランダ(ネーデルランド)とスイスの独立が正式に認められた。
全てにおいて言えるのは、ドイツ地方を治めていた「神聖ローマ帝国」の解体である。もともと「神聖ローマ帝国」はカトリックを押し進めていたが、それを否定したのが①である。そしてそういう意味で最も大きいのが、②の300もの諸侯に自治権を認めたことである。これこそが、「神聖ローマ帝国の解体」とも言える決定であった。
また、③、④、⑤によりドイツ地方の分割は決定的となった。内容の詳細は次の段落に譲る。
数々の「あだ名」を持つウェストファリア条約であるが、それを表すもう一つのあだ名が「神聖ローマ帝国の死亡診断書」である。文字通り神聖ローマ帝国は解体され、また内部もそれぞれが大幅な自治を認められたことから、国としての位置づけが大きく変わった。
3.ウェストファリア条約の「本質」
(1) ウェストファリア条約の本質
ページ目次 [ 開く ]
先に示したとおり「教科書的」なウェストファリア条約の内容として5つが言える。更に、その5つの内容に基づいた条約であったが、より深く見ていくとその本質は更に深い。
この記事の『1.三十年戦争と「17世紀の危機」』に示したとおり、ヨーロッパは戦乱に明け暮れ荒廃が著しかった。その中で結ばれたウェストファリア条約は、そうしたヨーロッパの時代背景の中で導き出された大きな「一歩」であった。
ではその「一歩」とは何だったのか。考えてみると下記のことが列挙できる。
・ 宗教について新教徒(プロテスタント)を認めたことは、その後の「信教の自由」にも繋がる導線となった。
・ ドイツ地方は解体され、それは「領邦国家」としての「国家」を定義したこととなった。
・ 「国家」を定義し、その「国家」の単位で国と国との政治を進めるという基礎が出来た。
上記のそれぞれについて、深く見ていきたい。
(2) 世界初めての「国際会議」「国際法」
ページ目次 [ 開く ]
「国際会議」という枠組みをすれば、この「ウェストファリア条約」は世界的にも初めてだったと言える。17世紀半ばまで歴史は進んでいるが、その間、個別の国同士での折衝や話し合いはあった、しかし、多数の国が集まっての取り決めというのは、この「ウェストファリア条約」の締結が初めてであったと言われる。
当然ここでも数々の争いがあり、なかなか決まらなかった。1844年に始まり1648年に結ばれるまでに、実に4年を要している。また、実際には1642年に開催をされた会議だったのだが、各国の思惑入り乱れ、開催にすら2年を要した。
しかし、こうした苦労を経てヨーロッパ諸国のほとんどはこの会議に参加し、会議に関わった使節は148名にものぼった。まさに初めての「国際会議」となった。有力国で参加しなかったのは、ピューリタン革命で大変だったイングランドと、宗教が異なるロシア(モスクワ公国)とトルコ(オスマントルコ)のみであった。
この時の「使節」とは、国の皇帝の全権を認められた者等により構成されたが、君主などの肩書きの人は参加していない。どの国も「使節」を派遣し君主などの本人は参加しなかった。ここに「外交官」というもののひな形が生まれたのである。
ウェストファリア条約は、「初の国際会議」ということと「外交官の始まり」ということに加えて、「国際法の始まり」という要素もあった。「国際法(Law of Nations)」というのは「条約」のように明文化されたものもあれば、暗黙のルールや慣習といったあいまいのものもある。特に後者のものは、結果的に覇権国となったヨーロッパ諸国及びその派生国のアメリカによることが多い。
この条約や慣習により構成される「国際法」は、このウェストファリア条約の締結に伴う会議により出発したと言われる。
よく「ウェストファリア体制は、1789年に始まったフランス革命とその後のナポレオン戦争によって崩壊した」、といわれる。しかしここで始まり培われた「国際会議」「外交官」そして「国際法」の考え方は、基本的に現在も変わらない。それを主導した西欧諸国が覇権を握ったため、それが世界標準となって現在も続いていると言える。
つまり「ウェストファリア体制」といわれるこの仕組みは、近代のみならず現代にも生き続けているものであると言える。
(3) 新教徒(プロテスタント)を認めたこと
ページ目次 [ 開く ]
もともとが「最後の宗教戦争」といわれる「三十年戦争」を直接の引きがねとして結ばれたのが「ウェストファリア条約」である。となれば、宗教対立としての「カトリック」対「プロテスタント」の争いに結論をつける必要があった。その結論が「新教徒(プロテスタント)の信仰を認める」というものであった。
ただ、ここで注意が必要と思う。これを「信仰の自由の最初のステップ」という人もある。しかし、あくまで「新教徒(プロテスタント)の信仰を認めた」だけであり、それも制限的なものであった。この後の「帝国主義」の時代に通じるが、あくまで「キリスト教」という前提の上で認められた権利だった。「キリスト教の新教徒」を認めただけであり、「信仰の自由」などという概念からはほど遠いものだった。結局、「人は殺してはいけない」という考えを「キリスト教徒」のみ、もっと言えば「白人のキリスト教徒のみ」という限定付きに認識した上で、信仰を認めた形であった。それは後の帝国主義のヨーロッパをみれば如実に出ている。白人のキリスト教徒以外のアジア人・アフリカ人は彼らにとって「人間」の対象外であったのである。
ここで、ウェストファリア条約の締結ということで象徴的な人物を紹介したい。ウェストファリア条約の頃には、スウェーデン王は若き女帝だった。女王クリスィーナはスウェーデンの女王として1632年に6歳の若さで即位し、22年間王位にいた。彼女は非常に個性的な人であり、また深い教養の持ち主であった。哲学者であるデカルトや、グロティウスとも交流があったと言われる。彼女の父親は、「北欧の獅子」の異名を持つ英雄、あの「グスタフ2世アドルフ」である。(グスタフ2世アドルフは➡国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【2】30年戦争とその背景参照)
ウェストファリア条約締結の時には、全権使節を派遣して参加している。そして、プロテスタント勢に大負けした神聖ローマ帝国に対して厳しくあたるべきプロテスタント勢の国王にもかかわらず、かなり寛大な要求しかしなかった。「カトリックもプロテスタントも皆人間」として、大きな権利を主張しなかった。スウェーデンは、彼女の寛大な姿勢による大幅な譲歩により、取り分が激減したと言われる。
それでもスウェーデンはヨーロッパ本土にも足がかりを作り、大きな飛躍を遂げたことは間違いない。なお、クリスティーナはその後あろうことかカトリックに改宗し、王女を投げ出し、と自由奔放な動きをする。彼女を「不思議ちゃん」という学者もいるが、クリスティーナ女王は枠を越えた考えの持ち主で、「キリスト教徒は皆同じ」といった思想であった。かなり黒いこともやっているが・・・。興味の尽きない女王である。
(4) 領邦国家としての、「ドイツ地方」の始まり
ページ目次 [ 開く ]
三十年戦争の震源地であったドイツ地方、すなわち神聖ローマ帝国では、被害は甚大であった。結果、ウェストファリア条約により、諸侯と言われる国王につぐ領土を持つ「大封建領主」あるいは「大貴族」が大きく力を持った。神聖ローマ皇帝はほぼ無力化され、統治していたハプスブルク家の力はオーストラリア地方にてのみ残される事になった。
後のフランス革命にも大きな影響を与えたフランスの哲学者ヴォルテール(1694年~1778)が、神聖ローマ帝国について
と言ったとされる。これに象徴されるように、ヨーロッパで全盛を誇ったハプスブルク家の支配する神聖ローマ帝国は完全に解体され、無力化された。なお、完全になくなるのは第一次世界大戦まで待つことになる。
では、ドイツ地方はどうなったのか。それが「領邦国家」と言われる小規模国家の乱立である。そしてその中で大きく力をもっていったのが、三十年戦争の被害が少なかったプロイセン王国である。1701年に「公国」から「王国」に昇格したこの国はフリードリッヒ=ヴィルヘルム1世の下で、軍国主義政策を推し進めて強大な国となっていった。
その状態で、安定するわけがない。ウェストファリア体制はそのスタートから大きな火種を持っていたのである。
(5) 「ウェストファリア体制」とは ~「主権国家体制」と勢力均衡(Balance of Power)~
ページ目次 [ 開く ]
このような全体の流れの中で「ウェストファリア体制」を象徴する言葉として言われているのが、「勢力均衡(Balance of Power)」である。もともとそれぞれの地方でしかなかった各国が、「使節」という代表を送って「外交」を繰り広げた。
これはまさに「国家」を意識した行動であり、以後「国家」という単位での動き、あるいは「国家」としての勢力争いとなっていく。領土や国境が大きくクローズアップされていった。
結果から言えば、ウェストファリア体制で平和が訪れることはなかった。すぐに戦争は起こり、多くの血が流れ人民が虐殺されていく。しかし、ウェストファリア条約によりヨーロッパ世界にもたらされた大きな変化は、「国家」を一つの単位としたことと、もう一つは、その「国家」間でバランスを取って力を一定にすることで戦争を防ぐ、と言うメカニズムであった。
フーゴー・グロティウスというオランダの思想家は、三十年戦争の最中に「戦争と平和の法」という本を出して大いに話題に上がった。彼は、戦争の防止や収束には事前法の理念に基づいた国際法が必要と主張した。
またグロティウスは、戦争の悲惨さを目の当たりにしつつも現実の「紛争解決手段」としては認めている。ただし「戦争には一定のルールが必要」と考え、それを提示した。
グロティウスは「国際法の父」あるいは「自然法の祖」とも言われる。彼の考えは大いにウェストファリア体制に組み込まれている。
このように、いわゆる「ウェストファリア体制」といわれるものは、ヨーロッパの領邦の各主権者を中心として国家を定義し、その国家間での話し合い(外交)やルール策定(国際法)により、勢力の均衡を図り平和が維持できる体制を模索していくものであった。しかし、「戦争」という意味ではすぐに始まり、その目的は全く長くは達成されなかったが、そのメカニズムそのものは、現代含めそのまま維持されて、いわゆる「国際政治」が行われているのである。
4.ウェストファリア体制とその後の世界
ページ目次 [ 開く ]
ウェストファリア体制というものは、難産の末生まれた。しかしこれで戦争がなくなるほど単純な話ではなかった。イングランドではピューリタン革命により皇帝が処刑され、ヨーロッパ本土でも各国での戦争は全く収まらなかった。
ただし、「宗教」を起点とした戦争は大きくは発生しなかった。人の信条に対してのアプローチは大きく変わったといえる。しかし、まったく戦乱は収まることなくむしろエスカレートしてく。「国家」という単位により活動を始めた各国の利害関係は、「国」対「国」という大規模の対立を生み、民衆との意識の乖離という矛盾も含みながら、絶対君主が統治していく。
そしてヨーロッパではドイツ地方においてプロイセンが圧倒的力を持ち始め、またイングランドから逃れた移民による「アメリカ」の誕生が起こってくる。植民地支配もどんどん進んでいった。
ウェストファリア後もヨーロッパはまったく落ち着くことはなかった。
5.ウェストファリア体制と日本との関係
ページ目次 [ 開く ]
このように見てきたが、「ウェストファリア体制」というものがヨーロッパだからこその事例であることがよくわかる。今でこそ「国際法の始まり」とか「初めての国際会議」というが、それはあくまでヨーロッパで必要だったから行われたものと思われる。
それほどまでに、混乱と悲惨な戦争・殺戮を繰り返してきた、といえる。それを制御する仕組みとしての「国際法」であり「国際会議」であった。それが日本にあてはまるのかというと、全く違う歴史をたどった日本にとって課題はそこではなかった。
日本は「島国だから日本は平和ボケしている」という人もいるが、事実は全く異なる。日本はそれこそ聖徳太子の奈良時代から、もっと言えばおそらく縄文時代から外部と内部を明確に分けて考えていた。そして「内部」には自然にできた「日本らしさ」というルールがあり、皆それに基づいて生活し行動していた。それがあったから、信じられないような虐殺はなかったのだと思う。
30年戦争の頃の日本は、徳川幕府が開設後まもなく、将軍は2代目秀忠から3代目家光に代わる頃である。その時、徳川幕府初めての「武家諸法度(ぶけしょはっと)」が公布される。
武家諸法度は、将軍家から武士特に各藩の大名に示される行動規範をまとめたものである。すなわち支配者同士の法律のようなものである。その最初である「元和令(げんなれい)」(元和(げんな)元年:1611)の最初の部分が次の文である。
一、酒に溺れ遊びほうけてはいけない、好色と博打にのめり込むのは国を滅ぼすもと
一、法令違反者を隠してはいけない
上記の通り、国のトップに「自分達から勉学に努めて模範となるよう」に、自分たちのすべき心意気を説いている。ウェストファリア条約で「カトリックもプロテスタントも人間だから殺さない」とするレベルと、この「武家諸法度」のレベルの違いは歴然である。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。