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国際政治の始まり「ウェストファリア体制」を学ぶ!【2】30年戦争とその背景

1618年頃の世界

ヨーロッパでの「最後の宗教戦争」といわれる「30年戦争」について考察する

シリーズの2回目である。

「ウェストファリア条約」は、国という概念すらはっきりしなかった当時で、各国や地域ごとの利害を調整した初めての「国際条約」であった。
しかしそれを見ただけでは、本質はつかめない。記事のテーマがウェストファリア条約であっても、その条約の締結の背景を見ないと意味がない。その背景が「三十年戦争」である。その「三十年戦争」をまとめてみた。是非ご覧を。

(動画でのポイント解説)

1.あくまで「ヨーロッパ内部での内乱」に過ぎない「宗教戦争」

三十年戦争は、「最後の宗教戦争」と呼ばれると共に「最初の国際紛争」とも呼ばれる。どちらも間違いではないが、歴史を見る上での大前提として、地図上のヨーロッパの位置を確認したい。

1618年頃の世界
1618年頃の世界
30年戦争 対立軸
30年戦争 対立軸

宗教改革や三十年戦争はヨーロッパ全体に及ぶ大戦争であった。また、今の「国際法」のようなものが形作られた、近代史における大きな起点となる事件であった。
しかし、世界で言えばあくまで「ヨーロッパ地方」の中でかつ、「ドイツ地方」のごく一部での動きである。当時の世界情勢において、ヨーロッパは必ずしも覇権地域ではなく、あくまで狭い地域の中での「内乱」であった。

ただ、この「内乱」は、後の世界の基準を決める国々が当事者のものであった。そしてこの戦争を経て、更なる「覇権」を求めた「国(Nation)」による動きが始まる。そういう意味では、ヨーロッパ社会が今の形に変貌を遂げる「胎動たいどう」が「三十年戦争」だった

2.宗教革命により生じたカトリックとプロテスタントの確執

三十年戦争とは、「最後の宗教戦争」といわれる戦争であり、それにより「国家」が誕生したということで、その後に結ばれた「ウェストファリア条約」と共に近代ヨーロッパ史において、非常に重要な戦争であった。

しかしその内容は非常に複雑で、あまり詳細を追いすぎると余計に全体が見えてこなくなる。ここでは主立った動きだけを記述したい。
それを見る前に、まずは「宗教戦争」の歴史を簡単に記述したい。

マルティン=ルター
マルティン=ルター

元々の始まりはドイツから起こった、「マルティン=ルター」による宗教改革」である。キリスト教は現在でいう「カトリック(旧教徒)」を中心にローマ教皇を頂点とした体制であった。しかし、発足から千年以上経った中でその腐敗も著るしかった。そこで出てきたのがルターの進めた「宗教改革」であった。

こうした、カトリックとプロテスタントの対立は、大きな戦争を生んでいた。その中の一つにドイツにおけるシュマルカンデン戦争(1546年~1557)がある。当時の「神聖ローマ帝国」の皇帝はカール5世で、ここで画期的な妥協を図った。それが「アウグスブルグの和議(1555年)」である。これはルター派の信仰を認めるものであったが、あくまで「ルター派」のみであり、また、領主に認められただけで住民は領主に従うだけであった。
この中途半端さが、後の三十年戦争を引き起こす地雷となるのである。

ジャン=カルヴァン
ジャン=カルヴァン

この当時の宗教改革においてもう一つ重要なのが、「カルヴァン派」である。カルヴァン派はフランスに端を発するルター派」の一派だが、その影響力が強かった。フランスでは「ユグノー」と呼ばれ、オランダでは「ゴイセン」、イギリスでは「清教徒(ピューリタン)」とよばれ、その影響がヨーロッパ全体に広がったのである。これに「イギリス国教」が加わって、「プロテスタント」と呼ばれた。

なお、社会の教科書で学ぶ「イエズス会」はこの頃発足している(1534年)。その創設者の一人が「フランシスコ=ザビエル」であり、かなりの実力者であった。この頃のカトリックは、プロテスタントの勃興により、それに対抗してその組織を広めることを積極的に行っていた。

フランシスコ=ザビエル
フランシスコ=ザビエル

しかし、単に宗教を広めるだけならいいが、それにとどまらない。宗教者だから人格者と思ったら、全く歴史を見誤る。人身売買を平気で行い、アジア人やアフリカ人は人とも思っていなかった。
日本に来た宣教師達が「日本の奴隷は神の恩寵(おんちょう)」とまで言って、豊臣秀吉の逆鱗に触れたくらいである。秀吉の「伴天連(バテレン)追放」はカトリック教会のあまりに身勝手かつ強引な布教活動に業を煮やした結果なのである。決して「キリスト教」全体を問題視したものではない。だからこそ、当時の日本でも「プロテスタントのオランダ」との貿易は続いた

いわゆる宗教戦争の代表的なものは以下の通りである。

① ドイツにおけるシュマルカンデン戦争(1546年~1557)
② フランスのユグノー戦争(1562年~1598)
③ オランダ独立戦争(1568年~1609)
④ 三十年戦争(1618年~1648)

その中で、最も規模が大きく被害が甚大であり、それ以降は「宗教」を直接の理由にした戦争がなくなったのが、「三十年戦争」であった。

二つのプロテスタント勢力
二つのプロテスタント勢力

3.悲惨を極めた残虐行為の数々

三十年戦争は大きく4つの段階に分けられる。

三十年戦争の「4つの段階」(第1段階)ベーメン・ファルツ戦争(1618年~23)
(第2段階)デンマーク戦争(1625年~29)
(第3段階)スウェーデン戦争(1630年~35)
(第4段階)フランス・スウェーデン戦争(1635年~48)

(第1段階)ではあくまでベーメン(ボヘミア)地区における、ドイツ国内のプロテスタント弾圧であった。しかし、その後の(第2段階)から(第4段階)に至るまで、直接的にはデンマーク・スウェーデン・フランスが介入。また、裏ではイングランドもからみ、完全に国際紛争となって行った。

三十年戦争の構図
三十年戦争の構図

戦争は悲惨を極める。特に主戦場となったドイツ中央部では、人口が1600万人あったのが700万人になったとまで言われる。どんなに少なく見積もっても400万人は死んだと言われる。

またその殺し方が筆舌に尽くしがたい。およそ人間のなせるわざとは思えないほどの残虐さをもって戦争は遂行されていった。

「カロ」の描いた30年戦争
カロ による三十年戦争の風刺

有名な上記の絵は、見せしめに人をつるしているものである。木につるされているのは「人間」である。これが人のやることかと、唖然とする。これは三十年戦争に限った話ではない。もともと、「異端」あるいは「異教」を殺すことは「人間」を殺すことと見なされないと言われる。そして、そうした「異端」に対しては「魔女狩り」と同じで、徹底的に苦しめ、苦しめた後でなければ殺す意味が無いとまで執拗に行われた。拷問のやり方など、学ぶとまったく理解に苦しむ。「苦しませることが目的」という、理解を超えた行為がまかり通っていた。

この事実を特に西欧人以外の人達はよく知る必要がある。歴史の根本に、こうした「残虐さ」がある。三十年戦争の後には宗教の自由は大きく認められ、「異教」という理由で人を殺してはいけないこととなる。そんなことも決めないと分からないのかという事実に愕然とする。また更に、その対象はあくまで同じ白人人種に限った事なのである。我々アジア人がまともに認められるのは、日露戦争に日本が勝った時まで待たないと行けない・・・。

4.ボヘミア(ベーメン)に端を発する宗教戦争 

戦争の発端は、ベーメン地方(今のチェコの西部のボヘミア)におけるプロテスタントによる反乱(「ベーメンの反乱」)からだった。1618年である。第一段階のベーメン・ファルツ戦争(1618年~23)である。

神聖ローマ帝国とベーメン
神聖ローマ帝国とベーメン
神聖ローマ皇帝 フェルディナント2世
神聖ローマ皇帝 フェルディナント2世

これに対し、敬虔なカトリックだった神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は当然のごとく弾圧を加えた。本来プロテスタントは、「アウグスブルグの和議」でその信仰は認められたはずだった。とはいえ、「領主」の宗教を自由にしただけで、領民は領主の宗教に従うことが前提であったためである。

この対立に乗じて、旧教徒(神聖ローマ帝国)側にはスペインが、新教徒側にはオランダが支援していた。既にこの時点で、国と国との勢力争いは始まっていたといえる。

また、ブレーメン一つの反乱ではなく、ドイツ地方の諸侯にもブレーメンへの賛同の動きは多くあった。このように、旧教徒(カトリック)で押し進めようとする「神聖ローマ皇帝」に反対する勢力は大きく、大きなうねりとなりつつあった。
しかしそれでも、「神聖ローマ帝国」を中心としたカトリック勢力は強く、必ずしもプロテスタント勢力が優勢では無かった。

5.参戦する各国 ~狙いは「神聖ローマ帝国ハプスブルク家」~

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン

戦争も第二段階のデンマーク戦争(1625年~29)の段階に入ると、完全に宗教戦争というより覇権争いの様相となっていく。

目的は、ヨーロッパ中央を束ねる神聖ローマ帝国」の分裂あるいは解体である。

デンマーク王クリスチャン4世が、イングランド・オランダの支援を得てドイツに直接介入。これに対し、神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世は、ベーメンの司令官「ヴァレンシュタイン」を登用。このヴァレンシュタインは非常に戦争に長けており、見事デンマーク側を打ち破った。

その次にドイツ北部に侵入したのが、スウェーデンである。それが第三段階の「スウェーデン戦争(1630年~35)」である。

三十年戦争の「4つの段階」(第1段階)ベーメン・ファルツ戦争(1618年~23)
(第2段階)デンマーク戦争(1625年~29)
(第3段階)スウェーデン戦争(1630年~35)
(第4段階)フランス・スウェーデン戦争(1635年~48)
グスタフ2世アドルフ
グスタフ2世アドルフ

スウェーデン王は、当時「グスタフ2世アドルフ」であり「北方の獅子(ライオン)」との異名を持つほどの英雄であった。このグスタフアドルフをもって、フランスの支援を受けつつ神聖ローマ帝国に侵攻した。

これにより、名将ヴァレンシュタインに勝利することは出来たが、グスタフアドルフ自身が「リュッツェンの戦い(1632年)」で命を落とすこととなってしまった。

このようにして、神聖ローマ帝国はなんとか名将ヴァレンシュタインの登用を経て持ちこたえてはいたが、やはりそれに対抗する勢力の支援もあって劣勢に追い込まれていく。そして、ヴァレンシュタインは暗殺される。あまりにも強引な皇帝と、才気あふれるヴァレンシュタインとの考え方の違いが両者を確執を生んだという説が有力である。

6.参戦したフランスの思惑 ~リシュリューの深謀~

神聖ローマ帝国はなんとか持ちこたえ新教徒(プロテスタント)を押さえつつあった。その状況下で直接介入してきたのがフランスである。これにスウェーデンも同調し、これが最終的な引き金となってプロテスタント側の勝利となるのである。これが第四段階のフランス・スウェーデン戦争(1635年~48)である。

三十年戦争の「4つの段階」(第1段階)ベーメン・ファルツ戦争(1618年~23)
(第2段階)デンマーク戦争(1625年~29)
(第3段階)スウェーデン戦争(1630年~35)
(第4段階)フランス・スウェーデン戦争(1635年~48)

フランスの介入には、少し解説が無いと分からない。もともとフランスは「カトリック(旧教徒)」の国である。にもかかわらず、なぜ新教徒側を支援したかと言えば単純に「ハプスブルク家」の衰退を狙ったためだった。当時はハプスブルク家としてスペインと神聖ローマ帝国が君臨し、フランスは挟まれている形になっていた。となればこれを打ち破る必要があったのである。これを実行したのが、フランスの名宰相リシュリューであった。

フランス宰相 リシュリュー
フランス宰相 リシュリュー

リシュリューは冷徹な判断力を持ちフランスを強国に押し上げた。ルイ13世の信頼厚く、この時代に大いに活躍している。

リシュリューは「アレクサンドル・デュマ」の小説「三銃士」に悪役として出てくる人物で、なじみのある人も多いと思う。小説の中は別として、彼は政治力に長け、理想を持ってフランスを導いていった。
確かに、この三十年戦争にカトリックのフランスがプロテスタント国を支援するのは矛盾があった。しかしそれでも、フランスのブルボン家の繁栄を第一に掲げ、冷徹に国際政治の舞台で判断していった。

なお、戦後のウェストファリア条約の頃にはリシュリューはおらず、その後は指名した後任の「マザラン」に託された。

7.「三十年戦争」時のイングランドは?

ここで、イギリス(イングランド)の情勢に触れておきたい。

イングランドは三十年戦争には直接からんでいない。しかし、記述したとおり陰からの資金援助などを行い、プロテスタント側を支援していた。イングランド自身が、プロテスタントの一種である「イングランド国教会」であったこともあり、またヨーロッパの覇権争いに介入して主導権を握ろうとしていた。

イングランド 清教徒革命
イングランド 清教徒革命
オリバー・クロムウェル
オリバー・クロムウェル

また、イングランド自身も大きく宗教革命の影響を受けていた。「清教徒(ピューリタン)」といわれるプロテスタントは、フランスのカルヴァン派の流れをくむ。その清教徒による活動は、ついに「革命」にまで発展し、イングランド国王チャールズ1世を処刑する(1649年)。そこから台頭する「オリバー=クロムウェル」による恐怖政治が行われることになるのである。

すなわち、イングランドとて「宗教改革」の流れからは無縁ではなかった。この後に「宗教改革」の名の下で、アイルランドとスコットランドを併合するのである。

日本で言えば江戸時代の初期には、ヨーロッパ全体が宗教をきっかけにした覇権争いに明け暮れ、それを反省して作られたルールが「ウェストファリア条約」であったのである。

8.「三十年戦争」と当時の日本

ここまで三十年戦争について見てきた。では、当時の日本はどのような状態であったか見てみたい。

三十年戦争と日本史
三十年戦争と日本史

年表にあるとおり、三十年戦争の頃はちょうど江戸時代の幕開けの頃であった。すなわち、日本が平和の時代に入るときにヨーロッパでは、先に記述したような血みどろの争いを行っていた。しかも30年もかけて戦争をしていたのである。国の人民を何百万人と殺しながら・・・。

こうしてみると、下記のことを思う。

・ 三十年戦争の始まりの頃は江戸時代の始まりの頃であり、以外に最近である。
・ 当時の日本史と比較しても、いかに三十年戦争が残虐でたいへんな多数の人を虐殺したか、が対比でわかる。日本史ではあり得ない状況であった。
まず、三十年戦争は意外に最近であることがわかる。「最後」と言われているとは言えヨーロッパでは「宗教戦争」として宗教がきっかけの大殺戮が、江戸時代の初期に始まり3代将軍家光の時にようやく終わっている
また、いかに残虐な戦争かということも痛感する。日本史上で何百万人も人が死ぬ戦争は、大東亜戦争・第二次世界大戦、でしかない。江戸時代の頃は、当時の江戸幕府や大名達が腐心して平和を維持してきたのである

このような日本史との時代対比も意識して見ると歴史は見えてくる。そして、この結果として結ばれ、「世界最初の国際条約」といわれる「ウェストファリア条約」の内容と、その効果について、次回に記述したい。

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コメント

    • あずき
    • 2019年 11月 06日 8:30am

    高校で地歴公民教諭をしている者です。
    複雑な三十年戦争についてどう教えるのが良いかと,様々に参考にさせていただきました。
    地図や肖像画等資料が多く,大変わかりやすいです。ありがとうございます。

    さて,「6.参戦したフランスの思惑 ~リシュリューの深謀~」の項目ですが,
    リシュリューの後任が大航海時代の「マゼラン」になっています。
    正しくは「マザラン」ではないでしょうか。

      • てつ
      • 2019年 11月 06日 11:11pm

      ご指摘ありがとうございます。おっしゃるとおりで「マザラン」でした。訂正しておきます・・・。

      私のつたないまとめが参考になり、光栄です。是非、利用してやってください。
      また、三十年戦争の本質である「ウェストファリア条約」を詳しくまとめた次の記事も是非ご参考いただけると幸いです。
      https://tetsu-log.com/westphalia3-1911026.html

    • のん
    • 2019年 10月 22日 10:19am

    高校の頃は、宗教と戦争が別々に教えられて、いまいちピンと来てませんでしたが、こうしてみると結びつきがよく分かりますね!
    宗教と戦争の問題は現代も続いてますが、相変わらずその感覚は、理解に苦しみます

      • てつ
      • 2019年 10月 23日 8:15am

      特にヨーロッパの歴史を見るときには、宗教という「きっかけ」を見ると分かりやすいよ。
      相変わらず日本との違いは痛感するけど・・・。

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