明治を見る!【5】明治時代の世界情勢

19世紀後半の主な戦争

明治時代【5】:明治時代の世界情勢を見る

明治元年は1868年である。西暦でいえば19世紀の後半となる。そしてそれから45年間が激動の明治という時代であり、日本の近代化を図っていた45年間であった。しかし、そうした激動は日本だけではない。世界にとっても激動の時代であった。その世界情勢を駆け足でまとめた。是非、ご覧を。

(シリーズ記事)

➡明治を見る!【1】明治と大正と昭和のつながり
➡明治を見る!【2】明治前半:大日本帝国憲法成立まで
➡明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争
➡明治を見る!【4】明治後半②:日露戦争後の世界と韓国併合と明治の終わり
➡明治を見る!【5】明治時代の世界情勢
➡明治を見る!【6】明治の首相の覚え方

1.明治時代(19世紀末)の世界情勢

(1) むき出しの帝国主義時代の19世紀後半

ペリーの来航は1853年で、その15年後に国内の混乱を経て明治となる。その頃の世界情勢としては、とにかく世界中で戦争ばかりの状況であった。

19世紀後半の主な戦争
19世紀後半の主な戦争

上記の通り、世界各地での戦争があった。そしてその構図はすべて、「欧米列強による植民地戦争」か、「欧米列強同志の戦争」か、の二つであり、欧米列強が絡んでいない戦争は、ほぼ皆無といってよかった。

それほどまでに、欧米は拡張主義に走っていた。その中心は、いわゆる「5大国」といわれる国々である。

19世紀後半の「5大国」・世界最強の大英帝国(イギリス)
・陸の強大国のロシア帝国
・ヨーロッパの強国フランス
・プロイセンを中心として統一された新興国家のドイツ帝国
・ハプスブルグ家の旧勢力として存在したオーストリア(ハンガリー)帝国

この5大国に加えてアメリカがその存在感を増してきていた。アメリカは、独立間もないがついに西海岸まで開拓を進め急速に力をつけてきた。
これらの諸国に共通するのは、いち早くはイギリスであるが、産業革命を経ていたことである。それにより他の列強以外を圧倒する国力をつけ、その市場を求めていた。

そしてそれが、ついに西から、アジアの極東まで広がり、清はすでに19世紀の前半の時点でほとんど割譲状況にあった。そして陸からは、ロシアが「シベリア鉄道」により、猛烈な勢いでその脅威を増していたのである。

それが、明治期の19世紀後半の世界であった。地図にある通り、それによる戦争が各地で行われ、国力のない国は悲惨な末路をたどっていた。というより、ほとんどの国は屈服せざるを得ない状況であった。

(2) 列強等の状況

その頃の列強の各国の状況は、下記のとおりである。

19世紀後半の各国の動き
19世紀後半の各国の動き

上記の通り、明治期の世界はなにも日本だけが変革の波にいたわけではなかった。イギリスは世界帝国としての新たな段階を踏もうと進んでいたが、アメリカの独立を許し、ロシアはクリミア戦争に敗れ大きく国の見直しと戦略の転換をはかり、ドイツは、生まれたばかりの状況の中で、ヨーロッパで微妙なパワーバランスを取りながら進んでいた。アメリカは、南北戦争という国を2分しての大戦争を終えて、今の西海岸まで勢力を伸ばしたばかりの状態であった。

世界各国もまた大きな変革の中にいたのである。そしてこの頃から「帝国主義」といわれるようになる。明確な定義はないが、力を持った国がその力で他国をねじ伏せて「植民地」としていくむき出しの時代であった。

それらの主要な国について、少し深く見ていきたい。

2.世界帝国イギリスの動き

ヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王

19世紀後半のイギリスは、ヴィクトリア女王の時代(1837年~1901年)とぴたり当てはまる。そのため、このイギリスの全盛期は「ヴィクトリア朝」とも呼ばれ、政治・経済・軍事・文化、あらゆるものが「ヴィクトリア朝の~」と形容されるようである。

いち早く産業革命を経ていたイギリスは、まさに世界帝国といわれる黄金期を迎えていた。

19世紀後半の世界の戦争・紛争(Ver.英)
19世紀後半の世界の戦争・紛争(Ver.英)

上記の地図の赤いところが、すべて「大英帝国」である。まさに世界中に植民地を設けて、その支配を広げた。相当な虐殺も含まれており、国の人口の半分を消した戦争もある。イギリスは早くから議会が成立していそれに基づき政治を行っていたが、結果だけ言えば議会があっても「帝国主義」を追認する機関でしかなりえなかった。

また19世紀のイギリスというより世界史上で大きいのが、「スエズ運河」の開通とそれをイギリスがエジプトから買収したことである。

スエズ運河買収(1879年)
スエズ運河買収(1879年)
ディズレーリ
ディズレーリ

これを実行したのは、時の首相ベンジャミン・ディズレーリである。ユダヤ系であるディズレーリは、本来フランスにわたるはずだったスエズ運河の権利を、エジプトの財政難をすばやく把握し、ロスチャイルド家というユダヤ系の人脈をフルに利用して、イギリスがスエズ運河の権利を入手することに成功した。

このスエズ運河の開通により世界の航路は全く様相を変え、またその権益を持ったイギリスには大きな経済的・軍事的優位が築かれた。

この世界帝国のイギリスが、「光栄ある孤立(Splendit Isolation)」として、どこの国とも同盟を結んでいなかった中で、1902年にアジアの極東の日本と同盟を結んだ。それについての詳細は先述した通りだが(➡明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争)、これはイギリスの国家戦略も大きく反映していた。海洋国家イギリスに対して、陸のランドパワーのロシアを抑え込むことは、イギリスにも必要戦略であったのである。まさか、その後の日露戦争で日本が勝つところまで行くとは思っていなかったようだが、イギリスにとってロシアを抑え込むことは、自分の植民地を広げる上で、重要な戦略であった。

(このころのイギリスの詳細については、過去記事参照➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本

3.ヨーロッパの均衡状況とドイツ帝国

ドイツは19世紀後半から20世紀の2度の世界大戦にわたり、ヨーロッパで台風の目となっていく。しかし、19世紀後半の最初の頃にはまだ「ドイツ帝国」は存在していない。

ドイツの前に、その前身ともいえるプロイセンがあり、そして、それを強力に引っ張り「ドイツ帝国」までもっていったのが、ビスマルクである。

ビスマルク
ビスマルク

ビスマルクは1861年にドイツの一地方であるプロイセンの宰相となった、ビスマルクはそれまで比較的農業国的要素が強かったドイツ地方を、プロイセンを引っ張る形で軍事を進めた。折しも、産業革命がヨーロッパ中に広がっていた頃であり、ものすごい勢いで軍事大国となっていった。有名な演説を1862年に行っている。「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」、いわゆる「鉄血宰相」と言われるゆえんで、プロイセンおよびドイツのためにひたすら富国強兵に努めた。なお、「ドイツ帝国」は1871年にプロイセンがフランスとの戦争で勝利した「普仏戦争」の後に成立している。

ビスマルクはその芸術的ともいえる外交バランスで、ヨーロッパの均衡を図りながらドイツを大きくした。ビスマルクの最大の関心は、普仏戦争に敗れたフランスが、再びドイツの脅威とならないように抑え込んでおくことであった。特に、ドイツにとってフランスとロシアとが結びつかないよう、腐心した。そのためには理念や情念に左右されることなく、現実的な国益の判断だけであり、また同時に冒険的な領土拡張には抑制的であった。

しかし結局ビスマルクにしかできない外交であった。ビスマルクが皇帝に罷免され、ヴィルヘルム2世の時代になると、様相が一気に変わる。
ビスマルクが最も恐れていた、フランスとロシアが直ぐに露仏同盟を結び(1890年)、更にイギリスとの対立まで発展していき、そしてドイツは結果的に二つの世界大戦へと突き進んでいくのである。

このヴィルヘルム2世以降、外交的な駆け引きで列強がバランスをとる時代は終わり、列強が軍備増強を競い、力で決着をつける帝国主義時代に入ることとなった。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世

ヴィルヘルム2世は、とにかく野心的・好戦的で、列強の帝国主義にドイツとして積極的に参加した。29歳にして即位すると、そりが合わなかったビスマルクを罷免し、自らの親政を開始する。アジアに対する野心も積極的にもち、支那の分割にも参加した。また、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉(1895年)は、ロシアの矛先を、バルカン半島から極東に向けさせるために、ヴィルヘルム2世のドイツが主導したという見方が正しいようである。また、アジア人に対する差別を進めるための黄禍論(こうかろん)を積極的に用いたのも、このヴィルヘルム2世である。その後の白人社会のアジア人差別の世論形成に大きく関与している確信犯である。

更にヴィルヘルム2世のドイツは、イギリスに対抗すべく海軍を増強し、ヨーロッパの火薬庫であるバルカン方面にも進出、さらに「3B政策」と言われるベルリン(ドイツ)・ビザンティウム(トルコ)・バグダート(中東)を結ぶ鉄道を計画した。イギリスの3C政策とも激しくぶつかった。イギリスはこの頃には「光栄ある孤立」政策は断念しており、日英同盟に続き「3国協商」と言われる体制を構築。完全に、ヨーロッパに大国同士の対立構造が生まれていた。ヴィルヘルム2世が、第一次世界大戦の原因を作ったといわれるゆえんである。

(このころのイギリスの詳細については、過去記事参照➡明治維新とヨーロッパ世界【4】 ビスマルク外交とその終焉

4.ロシアの南下政策への渇望

ロシアの19世紀後半における極東の進出については、まずクリミア戦争を理解しないとその内容がつかめない。

クリミア戦争
クリミア戦争

クリミア戦争は、ロシアがオスマン帝国の弱体化に乗じて、その宿願たる南下政策を進めようとしたことに端を発する。いわゆる「露土戦争」の一環ともとらえられるが、これに対しオスマントルコはなすすべもなかった。しかし、イギリスを中心にロシアの南下を徹底的に封じるため、イギリス・フランスが参戦、ロシアの完全な敗北で終わった。
もはや産業革命を経た他のヨーロッパ列強に対し、ロシアはなすすべもなく、結果、自国の改革の必要性を痛感することとなる。なお、この戦争中にロシア皇帝「ニコライ1世」が死去したため、「アレクサンドル2世」の時代となる。ロシアは新しい皇帝の下、農奴国家から近代国家へと急速に変化を遂げていく。

また、クリミア戦争は産業革命を経た後の初の大規模戦争であった。兵器は発達しており、その犠牲者は何十万にも及び、戦争は悲惨を極めた。

こうしてロシアにとっては大きな敗北となったクリミア戦争後、ロシアは農業国からの脱皮を図る。それにともない、産業革命を経て鉄道能力も大きく向上していった。その結果が「シベリア鉄道」である。

クリミア戦争とシベリア鉄道
クリミア戦争とシベリア鉄道

この頃、ロシアの皇帝は「アレクサンドロス3世」から「ニコライ2世」の治世に移っている。クリミア戦争に敗北したのちのロシアは、極東への関心を強くした。凍らない港である「不凍港」をなんとしても得たいロシアであったが、それがヨーロッパ列強に阻まれたのちは、シベリア鉄道の建設も伴い、極東に大きな関心が行ったのである。極東にはヨーロッパの列強はいない。あるのは、ほとんど割譲が進んでいる「瀕死の大国 清」がいるのみで、日本などはほとんど数にも入っていなかった。従って、こちらから海に出ることは容易と考えていたのである。

一方で、これを防ぐべく考えていたのがイギリスである。しかしイギリスはこの頃アフリカでの「ボーア戦争」に忙殺されており、なんとか日本にロシア帝国の拡張を押させる役割を期待したのである。それが「日英同盟」の背景にあった。

5.「強大国」への道をひた走るアメリカ

アメリカは、まだ建国後間もない状態であり、19世紀後半にはアメリカ史上最大の内戦である「南北戦争」を行ったばかりであった。

アメリカ南北戦争
アメリカ南北戦争

アメリカ南北戦争は、アメリカ史上最大の内戦と言われる。1861年から1865年にかけて行われ、犠牲者は60万人以上ともいわれる。第二次世界大戦でのアメリカの犠牲者が35万人と言われるから、それをも上回る内戦だった。内戦というより、戦争という表現の方が正しいのかもしれない。奴隷制の廃止を主張するリンカーンがアメリカ合衆国(USA)の大統領に就任すると、続々とそれに反対する州が合衆国から脱退しアメリカ連合国(CSA)を結成しその大統領も選出した。アメリカ合衆国(USA)から分離した、アメリカ連合国(CSA)との戦争、が、南北戦争の構図である。
奴隷解放が象徴のように言われるが、もともとあった北部と南部の地域的な性質の違いに根付いており、対立は抜き差しならないものであった。

結果的には、リンカーンが率いる北部が勝利した。これによりアメリカはようやく一つの国としてまとまったと言える戦争であった。これ以前はアメリカ人も外国人も、「The United States are ・・・」と複数形で呼ばれていたという。それがついに一つとなり、また、北部ではすでに産業革命が始まっていたため、それに南部も加わったことで、世界の強大国として大きく一歩を踏み出したこととなる。

南北戦争を経て、また、産業革命を経たアメリカは大国として、その存在感を見せ始める。その後のハワイの侵攻(1893年)、そしてフィリピンのスペイン支配からの独立をへの侵攻である米比戦争(1899年)と、ヨーロッパ列強同様の領土的拡張を始めていくのである。もはや、「新興国」という文言は当てはまらなくなってきていた。

6.日露戦争の日本勝利という世界的衝撃

そうした世界情勢の中で、日清戦争(1894年)を経て北清事変(義和団の乱)を経て、満州から撤退しないロシアと、それを脅威に思う日本との間の緊張がどんどん高まっていった。もともと「三国干渉」によりロシアに対する日本の世論の怒りは大きかったこともあったが、なによりロシアの「シベリア鉄道」の完成が迫ってくる中で、ロシアを止めなければ、間違いなく日本が植民地になるという見通しは、明治政府の共通認識だった。そしてそれは紛れもない事実であった。実際に、三国干渉で清に返したはずの遼東半島は、ロシアがいついて、自国領のごとく領有してしまっていた。

ロシアを含めた列強(ドイツも積極的に出てきている)の東アジアの進出はどんどん進んでいた。日本は悲痛な決断で、大国ロシアとの戦争に踏み切ったのである。

19世紀後半の主な戦争
19世紀後半の主な戦争

この時、日英同盟こそ結んでいるがまさか日本が勝つとはだれも思っていなかった。しかしそれは、その前の日清戦争も同様であり、この二つの戦争の日本の勝利は日本というアジアの黄色人種の国に対して、欧米は強烈な印象と大きな恐怖感と共にかなり強い警戒心を持たせることになった。

一方、列強にいいようやられていたアジア諸国は歓喜した。白人国家に有色人種国家が勝利したのである。世界史の大きな転換点の一つともいえるこの日露戦争の日本の勝利は、その後の2度の世界大戦へ日本が組み込まれていく上で、非常に重要な伏線となっていたのである。

7.第一次世界大戦へ

第一次世界大戦は、大正に入ってすぐに起こる(大正3年)。この記事のシリーズは明治であるから、第一次世界大戦にはここでは触れない。しかし、ここまで述べた明治の間に、すでにアジアは列強のパワーゲームの中に組み込まれ、そしてその中で唯一日本は「形の上では」対等の国として参加していた。

第一次世界大戦は、本来はヨーロッパの戦争であったが、大いに日本も関係することとなった。そしてそれは、日本が好むと好まざるに関係なく、欧米との軋轢を生み、そして隣国で対立るシナ大陸との駆け引きも激しくなっていく。そこに、ロシア帝国の崩壊を引き起こした「共産主義」という勢力も混乱に拍車をかけ、大きな世界情勢のうねりに日本の運命が大きく左右されていくことになっていくのである。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2019年 2月 01日

    日露戦争がこれほどキーポイントだったとは知りませんでした。勉強になります。負けていたらゾッとしますが、勝っても睨まれる(一目置かれる)。厳しい時代ですね。だからこそ国士も生まれるのでしょうが…、何とも言えないですね。

      • てつ
      • 2019年 2月 02日

      まさに「帝国主義」の時代です。本質的には今も変わっていませんが・・・。

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