日露戦争の背景に迫る!【5】国の存続をかけた「悲壮の決定」と日本の総力戦

日露開戦 御前会議

日露戦争の背景!【5】御前会議に見る国の存続をかけた「悲壮の決定」と日本の「総力戦」を見る

「日露戦争の背景に迫る!」のシリーズの5回目である。いよいよ開戦やむなし、となり戦争に入る決定は「御前会議」にて行われた。ではその御前会議は、意気揚々と戦争に挑むことになったかと言えば全く違う。国の存亡をかけた悲痛な決断であった。その時の状況と、国の存亡をかけた総力戦の状況をまとめた。是非ご覧を。

1.明治時代の内閣の変遷

明治時代の首相は14代変更している。初代は伊藤博文公であり、憲法も無い状態から始まり、なんとか近代国家を目指すために内閣を維持してきた。

これを覚える方法として、YouTubeで「竹内睦泰(たけうちむつひろ)」先生から覚え方を教えてもらった。以下の通りである。

いくやま いまい おやい かさかさ

と頭を取って覚えるといいと言われて、実際に見てみたら、すっと頭に入った。
すなわち、

(伊藤博文)(黒田清隆)(山縣有朋)(松方正義)」
(伊藤)(松方)(伊藤)」
(大隈重信)(山縣)(伊藤)」
(桂太郎)(西園寺公望)(桂)(西園寺)」

 と覚える。何度も出てくる人もいるが、これで覚えやすくなる。
顔写真と出身地別に分類したリストは以下の通り。

明治時代の内閣
明治時代の内閣

ブルーに着色したのが「長州閥」、肌色に塗ったのが「薩摩閥」で、着色のないのがそれ以外である。一目で長州勢の多さが目立つ。明治政府は「薩摩・長州による政治」というが、実際には、長州勢が政治を引っ張っていたことがよく見える。薩摩はどちらかというと、軍に人が多い。

また内閣は14回変わっているが、何度も出てくる人が多い。伊藤博文の4回を筆頭に、なんとか内閣をしっかりと運営すべくその経験を踏まえた内閣が組成されていた。人数で言えば7人となる。

2.日露戦争決定と日本の体制

(1) 2月4日の運命の御前会議

日露戦争決定の御前会議は、明治37年(1904) 2月4日に行われ、ロシアとの開戦が決定する。その2日後の2月6日には外務大臣の小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡すのである。

その御前会議の雰囲気は、非常に暗いものだった。明治天皇は大きく悩まれ、しばらく食事もとれていない状況にあった。そんな悲壮な御前会議のメンバーは元老げんろうが5人(伊藤博文、山形有朋、井上馨、大山巌、松方正義)、内閣が5人(桂太郎、小村寿太郎、山本権兵衛、寺内正毅、曾禰荒助)であった

日露開戦 御前会議
日露開戦 御前会議

改めて見ると、このメンバーでの会議とはすごい。まさに日本を決める大決断の会議だった。
しかし会議は悲壮感漂う中、ロシアとの戦争を決めた。伊藤博文公は最後まで反対だったというし、明治天皇もなんとか避けようと努力されていた。それでもやはり、ロシアの横暴には戦争しかなった、という結論だったのである。

当時の情景を、あるジャーナリストのブログより引用したい。

明治三十七(一九〇四)年二月四日、日露開戦を決定した御前会議が開かれた。

その日、空が白みはじめたころ、明治天皇は、最も信頼していた伊藤博文を、急きょ、宮中へよびだした。明治天皇は寝間着のままで、普段誰も入りの許されていない私室「常の御殿」で、憔悴し切った表情で待ちかねていた。天皇は十日ぐらい前から、苦悩のあまりに食事の量は、ふだんの三分の一に減り、眠れぬ日が続いていた。

駆けつけた伊藤に「……本日重大事について、元老げんろう、閣員の会議があるが、あらかじめ卿の意見を聞きたい」との御下問があった。

御前に平伏した伊藤は
国難がいよいよ切迫してまいりました。万一わが軍に利あらざれば、おそれながら陛下におかれましても、重大なるご覚悟が必要の時がくるやにしれませぬ。
このままロシアの外力の侵圧を許せば、わが国の存立も、また重大なる危機に陥ります。いまや決断を下し給うべき時機なりと存じます

と奉答して退席した。その日、午後一時四十分から開かれた御前会議は夕刻まで続きついに開戦が決定した明治天皇の決断の瞬間は森厳、凄烈な空気が会場を圧した。

長い緊迫と沈黙が続いたが、その場の雰囲気を和らげるように伊藤博文が、「これから尻ばしょりでほっかぶりをし、握り飯をもって、数十年前の書生に帰ったつもりで、ご奉公するつもりでございます」 と、おどけたしぐさでで言ったので、天皇ほか、山県有朋、桂太郎、山本権兵衛、小村寿太郎、児玉源太郎、大山厳らは大笑いして、その場の雰囲気は一度になごんだ。天皇はこの日はなにも食べずにすごした。

前坂俊之オフィシャルウェブサイト より

明治天皇の悩みに悩み抜いた上での決断だった。元老げんろうも内閣も、超大国のロシアと戦争せざるを得ないことに、悲壮感しかなかった。まさに、「決死の覚悟」で開戦に臨んだのである。

(2) 伊藤博文と金子賢太郎に見る、戦後への布石

2月4日の御前会議は、日本の方向性を決めた決定的な瞬間だった。世界史上でもやったことのない戦争を始めるのである。伊藤は御前会議を終えて帰るとすぐ自邸に、当時貴族院の議員だった金子堅太郎を呼んで、アメリカ行きを命じた。

日本の運命を決めた決定的な瞬間だった。伊藤は御前会議を終えて帰ると、すぐ自邸に金子堅太郎を呼んで、アメリカ行きを命じた。

金子は米国ハーバード大学の出身で、ルーズヴエルト大統領とは同窓生で、多くのアメリカ友人がいた。伊藤博文は、金子のルーズベルトコネクション、ハーバード人脈を使って米国世論工作とルーズヴエルトの和平斡旋を計画したのであった。まさしく伊藤博文の卓越した外交術、外交インテリジェンスを示すものだった。

前坂俊之オフィシャルウェブサイト より
金子賢太郎
金子賢太郎

伊藤博文公が日露開戦を決めた御前会議の2月4日のその日に、金子賢太郎に渡米して和平工作をするよう説得していることは、正確にこの戦争と国力とを理解したうえでの開戦であることの証拠と思う。改めて、当時の内閣や元老げんろうの見識の高さには脱帽する。

金子賢太郎はペリー来航の年の嘉永6年(1853)に福岡藩士の長男として生まれている。幼少とはいえ、幕末の激動を知った人物であり、何度も大臣として内閣にも入っている。
この金子賢太郎がアメリカ留学時に当時のセオドア・ルーズベルト大統領と同級生で、その後も懇意にしていることが伊藤博文公が金子に白羽の矢を立てた理由だった。また、金子氏は演説が上手で人を動かす力があり、国際金融にも明るい、ということも伊藤博文公は任せた理由と言われる。

開戦を決めたその日に、和平工作を進めているということが、重ね重ね当時の指導層は状況をよく理解した上での戦争であったことが伺える。

(3) 桂太郎内閣の顔ぶれ

この日露戦争時に内閣を引っ張っていたのは桂太郎首相である。元老げんろうがいるとはいえ、日本のトップは首相の桂太郎であった。

第一次桂内閣
第一次桂内閣

その内閣の中に、明治政府の設立者たちでいわゆる「元老げんろう」と呼ばれる人は一人もいなかった。当時、「二流内閣」とか「軽量内閣」と呼ばれていたようである。

しかし、今、日露戦争の結果を知っている我々としてはその評価は「間違い」と言わざるを得ない。もちろん日露戦争に勝ったことをもって優秀な内閣、と言えるかもしれないが、この内閣の面々の活躍を見ると、決して明治の維新の志士や元老げんろうに引けを取らない愛国者であり日本人であったと思う。

(4) 軍の体制 大山巌と児玉源太郎と山本権兵衛

軍の体制としてはいろいろな変遷があるが、

陸軍の総司令官:大山巌(おおやま いわお)
陸軍の総参謀長:児玉源太郎(こだま げんたろう)
海軍の大臣  :山本権兵衛(やまもと ごんべい)

の3人が大きく日露戦争を、そして日本をけん引したと言える。

大山巌
大山巌
大山巌(おおやま いわお)大山巌(おおやま いわお)は薩摩出身で、古くから薩摩で活躍していた。西郷隆盛は親せきにあたり、西南戦争では西郷隆盛討伐の総司令官となってしまった。本人はそれを死ぬまで気にかけていたという。

 

東郷平八郎と同郷で「陸の大山、海の東郷」と言われていた。西郷隆盛をほうふつとさせる人間力があり、軍をよく統率した人だった

元来、長州と薩摩はあまり仲が良くないといわれる。しかし、大山総司令官と児玉参謀長のコンビは絶妙であった。頭の切れる児玉に対し、大山は泰然として時には笑わせるような包容力で群を統率していった。

児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎(こだま げんたろう)児玉源太郎(こだま げんたろう)は、長州の人で首相の桂太郎と同郷である。児玉源太郎はたぐいまれなる統率力と頭脳で才覚を表していた。当時軍の指導で日本に来ていたドイツのメッケルは日露戦争の開戦を聞いて

「児玉将軍がいるのなら日本が勝つだろう」

とまで言わせた。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」ではべた褒めの人だが、それに全く引けを取らない功績であり、先を見据えた確かな判断力があった。日露戦争で両軍の総力戦となった「奉天の会戦」に勝った後に、浮かれる世論と政治家たちに対して

「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ」

と大喝してこれ以上の戦争遂行は無理であることを押し通した。まさに稀代の英雄であり天才であった。本当に惜しむらくは、日露戦争のわずか1年後の明治39年(1906)に亡くなってしまう。あまりにも早い死であり、児玉大将が長生きしていたら日本は、いい方向に違う形であったと思われる人である。

山本権兵衛
山本権兵衛

山本権兵衛(ごんべい)山本権兵衛(やまもと ごんべい(ごんのひょうえ))は、あまり有名でないかもしれないが、あの東郷平八郎を抜擢した人である。薩摩出身の山本は、とにかくロシアとの戦争があることを見越して、ロシアに勝てる海軍の整備に力を入れた。新鋭の戦艦の購入や若手の育成のための育成に尽力した。あの秋山真之たちが留学して勉強したのも、山本の力が大きい。

明治31年(1898)に47歳で海軍大臣となり8年間その任務に就いた。ロシアとの戦争の勝利を大きく導いた立役者の一人であった。

3.日露戦争の影の功労者達:明石元二郎もとじろう、高橋是清これきよ、金子賢太郎

(1) 「 明石元二郎もとじろう一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。 」

明石元次郎の任務は、ロシアへのスパイ活動とロシア国内を混乱させる「後方攪乱(かくらん)」であった明らかに暗部の活動であり、また種々の不幸も重なって、あまり名前は知られていない。しかし、この人が日露戦争に果たした役割は計り知れない。当時のドイツの皇帝「ヴィルヘルム2世」が明石の活動とその成果を聞いて

「 明石元二郎もとじろう一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。 」

と言ったという。裏の資金ではあるが、山縣有朋から莫大な国家予算(現在の価値で400億円)を任されスウェーデンのストックホルムを本拠地にして諜報活動を行っていた。

明石元次郎
明石元次郎

日露戦争は、正面からの戦争だけでは全く全容が見えてこない。この当時の世界は急速な技術革新と植民地支配が進む一方で、「帝政」と言われる皇帝政治が民衆から批判されていく時代であった。帝政ロシアは明らかに倒れつつある状態にあったのである。

そんな時に明石元二郎もとじろうの活動は非常に効果があった。日露戦争でロシア軍が連戦連敗していくと、その不満は高まる。そしてその不満を帝政ロシアに向けていけば、ロシアは当然戦争どころではなくなる。帝政ロシアは国内の不満を抑えるためにある程度の軍を国内に配備することを余儀なくされた。

血の日曜日事件」と言われるロシアの首都サンクトペテルブルグでの大規模デモとその粛清が起こったのは日露戦争の真っただ中の1905年の1月である。いわゆるロシア革命は第一次世界大戦後で1917年であるが、説によればこの「血の日曜日」も広義のロシア革命と呼ばれるという。
そして、その「血の日曜日事件」を扇動した大きな力の一つが明石元二郎もとじろうによる諜報活動と言われる。もちろん諜報活動のためにあからさまには出ていないが、ロシア革命の主導者であるレーニンとも面識があり、その革命活動に少なからず影響を与えたことが知られている。

謎の多い人物であるが、その活動のためにそれは当然と言える。現在言われている「スパイ」のまさに第一人者であり、実は日本より世界に評価されている人物でもある。明石元二郎もとじろうの諜報活動なしに日露戦争の勝利はなかった、これは間違いない。

(2) 高橋是清これきよによる資金調達 ~ユダヤの陰謀?~

高橋是清
高橋是清

高橋是清これきよも、日露戦争を後ろで支えて貢献した人である。貢献どころか、まさに彼の活躍なくして大日本帝国軍は戦争を遂行できなかった。全くお金がない日本において、戦争資金の「外債の発行」をロンドン市場・ニューヨーク市場で成し遂げて、それを引き受ける人物(会社)を手配した人である。

先に述べた金子賢太郎を伊藤博文がアメリカに派遣し、ルーズベルト大統領への工作を依頼したと同様に、高橋是清これきよにも同時期に非常に大事な指示が元老げんろうたちから出されていた。それが、「ロンドンにて外債の引受先を見つけて日本に資金を送る」というものだった。しかも開戦が決まった後である。

金子賢太郎にアメリカ行きの指示があった数日後に、高橋是清これきよは料亭に呼ばれている。元老げんろうの井上馨、首相の桂太郎、大蔵大臣の曾禰荒助など、そうそうたるメンバーに囲まれて、高橋是清これきよはこの非常に困難な使命を伝えられた。当初は「できない」と拒んでいたが、さすがにこのメンバーに言われてその場で受けたということである。

高橋是清これきよはアメリカ留学の経験もあり、そこで間違えて奴隷として売り飛ばされた、という経歴を持つ人物だった。いろいろ経ているが当時「日銀の副総裁」であったし、金融関係については絶大の信頼を得ていた。その高橋是清これきよに課せられた使命はあまりに難しく、しかしそれをしっかりこなしたのは高橋是清これきよでなければできなかっただろう。

外債市場において、弱小国の日本の外債を買う、などという市場の関係者はいなかった。まったく相手にされていなかったのが実情であった。ただ「日英同盟」が大きく効果を表し、また、金融関係者にもロシアに対しての反感を持つ人もいた。その代表がユダヤ系の「ジェイコブ・シフ」氏であった。

ジェイコブ・シフ
ジェイコブ・シフ

ロンドン金融界における巨人であるロスチャイルド家とも深い関係のある「ジェイコブ・シフ」氏は、アメリカの有力な投資会社である「クーン・ローブ商会」の経営者だった。そのジェイコブ・シフ氏は、鉄道王の異名を持つ「エドワード・ハリマン」氏とも協調していて、かなり手広く投資を手掛けていた。当時の巨人「モルガン」に対抗する勢力として存在するほどの力を持っていた。
結果的には、その「クーン・ローブ商会」が最初に日本の外債を引き受けるといったことにより、旅順攻略など日露戦争の日本有利のニュースとともに日本の外債がようやく引き受け先がつくようになった。それほどの影響力を持った人であった。

そんなシフ氏はユダヤ人で、ロシアで行われていた「ポグロム」と言われるユダヤ人の迫害・殺害行動に大きな怒りを持っていた。帝政ロシアは民衆の不満をユダヤ人に誘導していたため、帝政ロシアの打倒には強い意志を持っていた。実際にロシア革命の時にもかなりの資金を提供している。

では、それだけの理由で日本の外債を引き受けた方、といえばそれは違う。シフ氏は感情的には帝政ロシアを倒したいと思っていただろうが、それだけで動く人ではなかった。ギリギリまで投資するかどうかは判断をせず、日露戦争の最初の頃にロシアの名将のマカロフ提督が旅順で戦死したのを聞いて、ようやく初めて外債引き受けに応じている。しかも、日本にとってはかなり条件が悪くかった。まさに金融に長けたユダヤ人の投資家らしく、しっかり利益があることを確信してから動いている。

日露戦争時の資金調達
日露戦争時の資金調達

それでもその効果は絶大だった。その後に発行する外債も積極的に引き受け、『あの「クーン・ローブ商会」が引き受けるのなら値が上がるはず』、と後に続く投資家が出てきた。高橋是清これきよはシフ氏とはロンドンで初対面だったというが、このころにはファーストネームで呼び合うほどの仲になっていたという。

まさに高橋是清の知識・経験・人間力がなければ成しえない大業であった。その後も、日露戦争が膠着状態になるにつれ資金が枯渇し、外務大臣の小村寿太郎から何度か外債の発行の依頼が来た。その都度金額が大きくなり、高橋は大いに困ったが、それでも外債の発行をできるだけ有利な条件にまでもっていって、実現していった。1回目の発行の条件は金利が8%近くまで高いという、発行側にとってかなり不利な条件だったが、日本海海戦の大勝利の後は5%を切るほどの金利まで下がっていた

高橋是清これきよは、シフ氏さえイエスと言えば募集が可能とみていた。実際にそれほどにシフ氏の影響力は大きく、外債を引き受けてくれたことは、日本にとって大いに感謝すべき人であることは間違いない。この資金がなければ、戦争は遂行できなかった。そしてそれを引き込んだ高橋是清これきよの人間力なしでは、日本はとても戦争を続けられなかったのである。

なお、「日露戦争はユダヤ資本によるもの」「ロスチャイルドの陰謀」という話があるが、100%否定はしないまでも、あまり当たっていないと言わざるを得ない。当時の(現在もだが)国際金融を使えば必ず「ユダヤ資本」あるいは「ロスチャイルド」に必ず当たるためである。現在も続くロスチャイルドを中心とした「国際金融」の「力」については別の機会に触れたい。シフ氏は確かにロスチャイルド家との関係が深い人だったが、当初ロスチャイルド家そのものは日本の外債発行に協力していない。第五回の外債発行ではロスチャイルドの名前が入り大きな力となったが、当初は協力はなかった。日英同盟をバックに希望を持って頼みに来た高橋是清これきよに対し、ロスチャイルドは日本の外債引き受けを断っていたのである。やはりジェイコブ・シフ氏の外債引受けがあって初めて、日本の外債が注目され買われたのである。

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このあたりのことは「日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち―(新潮選書)板谷敏彦 著」に詳しくある。当時を知る最高の名著で、Kindle版もあるので、是非お勧めしたい。

(3) 金子賢太郎によるアメリカの和平誘導

金子賢太郎
金子賢太郎

先に記述した通り、金子賢太郎は伊藤博文公にいわれて、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に和平の仲介を頼む、というこれまた途方もない指示を受けていた。これも日本の命運を左右する重要な使命であることは間違いないし、当初辞退した金子賢太郎も、自分しかできないことを自覚していた。

結論を言えばそれは見事に成し遂げられた。金子賢太郎はルーズベルト大統領に対してのみならず、アメリカで公演等を通じて日本が正しい戦争をしていることの世論形成も行っていた。金子賢太郎は国際経済にも明るい人で、アメリカの国力を正確に見抜いていた。すでに大英帝国(イギリス)を超えつつあるアメリカを味方につけることがいかに重要か、よくわかっていたのである。

しかし金子は事情通であるがゆえに、成功の見込みはないと再三固辞したが、最後は伊藤の執念に根負けする。金子堅太郎の回顧録に下記のような伊藤博文公の言葉ある。(『金子堅太郎・回顧録 日露戦争・日米外交秘録』石塚正英)

伊藤博文公の覚悟の説得

「成功不成功などは眼中にない。かく言う伊藤博文のごときは皆、陛下からの賜物である。今日は国運を賭して戦うときであるから、わが生命財産栄位栄爵ことごとく陛下に捧げてご奉公する時機であると思う。」
「身を士卒に伍して鉄砲をかついで、山陰道か九州海岸に於て、博文の生命あらん限りロシア軍を防ぎ敵兵は一平たりとも日本の土地を踏ませぬという決心をしている。」

セオドア・ルーズベルト
セオドア・ルーズベルト

これほどまでの覚悟を見せた伊藤博文公に対して、金子堅太郎も答えないわけにはいかなかった。このような状況でアメリカ大統領に仲介をしてもらうなどという途方も内任務は、まさに成功の当てなどない中で手探りで始まったのである。

演説が上手だった金子は、アメリカでの演説で大喝采を浴びるほどの演説を行い、日本の潔さと正当性を広げた。アメリカでも人気のあったロシア海軍の英雄マカロフ提督が戦死したときに、敵にもかかわらずその人をたたえたり、旅順で乃木将軍の潔いふるまいをアメリカ人に話して世論の形成に大きく寄与した。当時「謎の国日本」が新渡戸稲造の「武士道」などで興味を引いていた頃で、それをうまくリードした人の一人だった。またセルドア・ルーズベルト大統領から「ケンタロウ」と呼ばれるほどの仲だったようで、当初は難色を示していた大統領も日本海海戦の勝利が決定打となり、アメリカを動かすことに成功したのである。

日露戦争終了後は日本とアメリカの懸け橋になるべく尽力した。昭和の時代まで生きていて、その頃の「日米開戦」に心を痛めていた人だった。
しかし実は、このセルドア・ルーズベルト大統領がこの後に日本への警戒を強め、後の第二次世界大戦あるいは大東亜戦争への道筋を付けることになろうとは・・・。

4.日露戦争の日本の状況を見て

日露戦争に関して、戦争だけ見るのではなくその全体を見ると実態が見えてくる。いかに日本の指導層が、厳しい状態の中でも、広く深く状況を見据え動いていたかがよくわかる。そして、それは決して侵略戦争などではないこともよくわかると思う。
どう考えてもそんな余裕はなかった。戦争に踏み切ったのは、ただただ、列強の植民地支配に対して、ロシアの横暴に対して「戦争せざるを得ない」という悲壮感と決意だった

その決意の後の先人達の動きは、まさに目を見張るものがある。現代に生きる者としても大切な教科書として見ていきたいと思う。

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