日露戦争の背景に迫る!【6】「勝利?」日本勝利の真実

日露戦争の主たる戦場

日露戦争の背景【6】「勝利」と言いきれない日露戦争の「日本勝利」の真実

「日露戦争の背景に迫る!」のシリーズの6回目である。実際の戦闘から、日本とロシアの軍の動きをまとめた。結果的には日本は「勝った」と言うことになっているが、内実は「勝ち」には程遠い「勝ち」だった。針の穴に糸を通すごとき「勝利」の中身をまとめた。是非ご覧を。

1.満州を実質支配したロシアとシベリア鉄道

日露戦争の背景はこのシリーズで詳しく述べてきたところである。東アジア情勢最大の脅威のロシアの影響を東アジアから取り除かなければ、日本及び支那・朝鮮を含む東アジアは、間違いなく帝政ロシアの植民地となっていた

では、具体的に当時のロシアはどこまで東アジアに進出していたのか。地図を見ればその脅威は明らかである。

日露戦争当時のロシアの脅威
日露戦争当時のロシアの脅威

地図にあるとおり、ロシアは「鉄道」を起点に植民地支配を進めていた。ロシアは自国の領土でないはずの「満州国」を実質的に植民値化している。まるで我が物のように堂々と「東清鉄道本線」という鉄道を引いている。また、朝鮮半島近くの「遼東半島」は先の「三国干渉」により本来、清国(支那)に割譲したはずがいつの間にかロシアが領有していた。そしてそこに「東清鉄道本線 南満州支線」という名の鉄道を引き、その支配への野望は明らかだった。

これを座して見ていれば、日本がどうなるかは誰の目にも明らかだった。

2. 戦争のスタートと日本の戦略

日露戦争そのものについては、ここでは戦争の流れだけの記述にとどめる。いずれシリーズにて詳細を記述したい。
日露戦争の戦闘はどこで、どのようにして始まったか?それはなかなか日本の教育において教えられてきていない。それを見れば、当時のロシアの状況が大きく見えてくる。

日露戦争は、まず「旅順」で始まる。朝鮮半島の西にある小さな半島の「遼東半島」の戦端の街である。明治33年(1904)2月4日の御前会議の直後の2月8日に旅順港に奇襲をかけている。そしてその次の日の2月9日に「仁川(じんせん)沖海戦」でロシア戦艦を沈めている。

日露戦争
日露戦争

ここで留意してほしいのは「仁川(じんせん)」の場所である。地図にあるとおり、今のソウルのすぐそこの海である。

すなわち既にそこまでロシアが迫ってきていて、制海権は握られつつあったことがわかる。清にしても朝鮮にしても、ロシアが来たら刃向かうことをせず、ほとんどいいようにやられていたのである。それぞれの策略はあっただろうが、日本のように堂々と対峙することは全くあり得る状態では無かった。そこにロシアが大きくつけ込んでいた。

つまり逆に日本の戦略で言えば、ソウルのあたりと遼東半島の先端の「旅順」が日本にとって、まずロシアの影響力を取り除くべき所として、戦争はスタートした。

日露戦争の主たる戦場
日露戦争の主たる戦場

図の①、②でスタートした戦争で、戦略として

(1) 朝鮮半島及び遼東半島からロシアの戦力を取り除きこのあたりのロシアの制海権を取り除く。
(2) ロシア陸軍を満州の中部にて殲滅する。
(3) (1)、(2)を行った上で、ヨーロッパ航路で来るバルチック艦隊の殲滅を図る。

というものだった。戦争は上記の通り大きく3つの戦いが、それぞれをなんとか勝ってきたのが、日露戦争である。
大雑把に言えば、上記の3つの戦いはそれぞれ、「旅順の陥落」、「奉天会戦」、「日本海海戦」と言える。

日露戦争 年表
日露戦争 年表

3.激戦地 旅順

旅順は戦争の最初に奇襲攻撃をしたところである。三国干渉を経て、ロシアの港となってしまっていたところであった。ここを押さえないと最強の名高いロシアの陸軍を満州で迎え撃つことも出来ないし、強大なバルチック艦隊との海の戦いも制海権を握られた状態でやれば負けは必至だった。
戦争開始から、仁川海戦・鴨緑江会戦・遼陽会戦などで苦労しながらも連戦連勝の日本であったが、旅順攻略は、戦略全体において、最重要であることは皆理解していた。

しかし、当初は比較的簡単に落とせるとみられた旅順が一向に落ちなかった。戦争の始めこそ旅順港の奇襲作戦は成功したが、その後の「旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)」は幾度となく行われたがなかなか成功せず、次には陸軍の戦力を裂いてでも進めることとなる。

ただし、この旅順攻略の中で、ロシア海軍の名将マカロフ提督の船を沈めて戦死させたことは、その後の日本にとって非常に重要なポイントとなる。世界中でも慕われていた名将の死に、大日本帝国軍の強さが印象づけられた。

① 旅順攻略戦
① 旅順攻略戦

しかし、要塞化した旅順は一向に落ちなかった。戦争が始まった明治37年(1904)2月に奇襲したが、夏になってもまだ落ちず、一方で大艦隊のバルチック艦隊は日本へと着実に近づいていた。日本は大いに焦っていた。そして世界中もこれを注視しており、なかなか思うとおりに進まない日本の状況を反映して、高橋是清の外債の募集、そして金子堅太郎のアメリカ世論形成にも暗い影を落としていたのである。

ここの攻撃を任されていたのは、第三軍司令官の乃木希典(のぎ まれすけ)大将。「総攻撃」と言われる攻撃は3度にも渡る。8月、9月、11月と行われた攻撃は双方多大の損害を出す。それほどの状況の中、「203高地」と言われる要衝を落としたのが12月である。

乃木希典大将
乃木希典大将

そして寒さ厳しい中で、同郷の児玉源太郎満州軍参謀長官が、乃木希典大将の所に12月に訪れている。旅順を落とさなければ、とてもではないが来たるべきロシア陸軍の主力との戦いである「奉天会戦」に挑めないのであった。その後も苦労があったが日本はなんとかロシア軍を攻め落とし、翌年の1月1日に司令官ステッセルは降伏を申し入れた。
日本にとっては大変な苦戦だったが、ロシア側にとっても戦前「いかなる軍隊が来ても3年は持ちこたえる」といった要塞が、結果的には半年で落ちたのである。これには世界中が驚愕し、そして乃木将軍を称えた。
日本の投入兵力は約5万人、要塞を構えるロシアは4万人で守り、双方1万5千人以上の死者を出した激闘であった。

小説「坂の上の雲」でも、大きなクライマックスの一つとして描かれるこの戦闘である。しかし、どうも著者の司馬遼太郎氏は乃木希典を良く思っておらず、また児玉源太郎をあまりに英雄扱いしすぎて描いていた。乃木将軍は完全に「無能将軍」のような描かれ方をして、あまり日露戦争に詳しくなかった当時の私でも読んでいて少し「?」と思ったほどである。
少なくとも、要塞の旅順を落としたのは乃木将軍であり、その功績はその後の日露戦争において、そしてその後の日本において計り知れない。同郷の児玉源太郎の協力があったにせよ、乃木将軍の功績が揺らぐことはない。

水師営の会見
水師営の会見

乃木将軍は明治38年1月5日、旅順郊外の水師営の陋屋(ろうおく)で、敗軍の将ステッセルと会う。乃木将軍は負けた相手の名誉を重んじて、帯剣を許し、「対等」の立場で遇する。ステッセルは、この戦闘で2子を失った乃木を哀悼し、大日本帝国軍の勇敢さをたたえた。
1枚の写真が残っている。世界各国の従軍記者の求めで撮影されたものだ。日露両軍の首脳が「友人」のごとく、くつろいだ様子で肩を並べている。乃木は大日本帝国軍よりも先に露軍戦死者の墓所をつくり、ステッセルは愛馬を贈った。これが後に歌にもなった「水師営(すいしえい)の会見」である。
この様子は世界に打電され、称賛を集めたのである。

そしてこの勝利と日本人の潔さは、ロンドン・ニューヨークで資金調達に翻弄する高橋是清、アメリカで世論形成を進める金子堅太郎、そしてスウェーデンでロシアの攪乱工作を行う明石元二郎にも大いに追い風となった。

4. 双方の総力戦 「奉天会戦」 とその勝利

(1) 世界史上でもまれに見る「大会戦」

② 奉天会戦
② 奉天会戦

遂に旅順を落とした日本陸軍であるが、ロシア軍の陸軍の主力は満州中央部の「奉天」にいた。しかも、完成間近のシベリア鉄道によりどんどん補給がなされていた。ただし、旅順が落ちたのが明治38年(1905)の1月であるが、その同じ月の1月22日にロシアの首都「サンクトペテルブルグ」にて起こった反体制運動の「血の日曜日事件」は「第一次ロシア革命」とも言われ、帝政ロシアを大いに揺さぶっていた。ロシアも非常に厳しい状態にあった。

一方日本は、更に厳しかった。戦争そのものはなんとか優勢を保っていたが、先回にも記述したとおり、外貨はほとんど無く軍が駐留することすらままならなかった。ロシアは苦しいといえどもその強大な国力により、本国からシベリア鉄道を経由して力を蓄えていた。ロシアは引きながら応援を待てば、どんどん有利になっていく状況にあった。それが「奉天」に集まっていたのである。

大山巌
大山巌

そこで現地の満州軍総司令官、大山巌が決断したのは、このままジリ貧を待つのではなく決戦を挑むというものだった。訓示で

本作戦は、今戦役の関ヶ原とならん

と言ったという。

明治38年(1905)の2月21日から3月10日までの18日間で行われた陸戦は「奉天会戦」と言われ、日露戦争最後の「会戦(大規模陸戦)」であった。大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍が36万人という、当時の世界的に見ても桁違いの規模の戦いであった。世界史上でも類を見ない大会戦であったのである。そして日本はこの時点ですでに兵力でも圧倒的に劣勢だったのである。

結果、「日本が勝った」というより、「ロシアが引いた」というべき形で戦争は終わる。双方激戦の中、大日本帝国軍はほとんど崩壊に近い状態になりながらも、必死で持ちこたえた。一方のロシアも激しい戦闘に伴い軍規が乱れ混乱は深まっていった。双方多数の犠牲者が出る中、ロシアのクロパトキン司令官が出した指示は戦力があるうちでの「撤退」だった。

(2) 世界に印象づけた「ロシアの敗北」と浮かれる日本国内

奉天会戦」におけるクロパトキンの撤退は、ナポレオン戦争の時のロシアの先方と同じく「戦略的撤退」として行ったものだったとも言える。それでも、大日本帝国陸軍は大いに助けられ、無事「奉天」を制圧することに成功したのである。
大日本帝国軍は、すでに満州の奥地までにきて度重なる戦争に兵力の余力はほとんど無かった。一方でロシア帝国陸軍は日本の10倍とも言われる100万人をようする中でまだ半分も出していない状況であり、日本の劣勢は明らかだった。
しかし、「血の日曜日事件」などでロシア帝国の国内情勢がそれをさせなかったし、他の欧州諸国に対する抑止力も必要でこれ以上兵は避けなかった。また、ロシア帝国軍がこの戦いで大きく損害を出し、立て直し作業が必要になったことは間違いないことだった。

そしてロシア帝国はクロパトキン司令官が罷免され、軍の立て直し作業を始めた。それこそが負けを認めたことになり、世界中が「ロシア帝国陸軍の敗北」を認識したのである。

奉天将軍の会合
奉天将軍の会合

このように、日本は正確には「勝った」のではなく、「負けなかった」だけであった。しかしこの「奉天会戦」勝利の日本世論を沸き上がらせた「戦争継続」の声が世論・マスコミを支配した。そしてあろうことか、政府までもが「更に攻める」「ウラジオストックまで侵攻する」とまで計画していた
完全に「浮かれ上がって」いた。どう考えても戦争継続は不可能な状況にも関わらずである。

児玉源太郎
児玉源太郎

確かに、三国干渉を経て「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、耐えに耐えながら悲壮な決意で戦争をした中の勝利だったので、その心情は理解すべきかも知れないが、もしこれで戦争を継続し広げていたら、当時の世界情勢なら第二次世界大戦以上に日本は破壊されていただろう
そしてそれを大喝して押しとどめたのが、大山巌の命により満州から急遽、東京の大本営に戻った児玉源太郎だった。東京の大本営・世論の「戦争拡大」を聞いて児玉は

「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ」

と大喝したという。3月に大山の命により東京に戻った児玉は現場をよく知る海軍山本権兵衛大臣の同調を得て、政府に対して「講話に動くこと」で調整に成功。これによりアメリカの仲裁の動きが具体化していくのである。

アメリカの大統領セルドア・ルーズベルトは中露大使を通じて、講和を呼びかけた。しかし、ロシア帝国は「奉天会戦」で負けたことは認めたが、まだ虎の子の「バルチック艦隊」があるとして、アメリカの仲裁を断っている。ロシアが最終的に戦争をやめるのは、「バルチック艦隊」の戦いを終えなければならなかった。

5.日露戦争最終戦「日本海海戦」

(1) 歴史上類を見ない大艦隊の移動

バルチック艦隊」とは通称である。ロシアあるいは後のソビエトにおいて、バルト海に駐留する艦隊を言う。日本では、日露戦争時にバルト海を出発した艦隊のことを指すので、今後それに従う。

バルチック艦隊の日露戦争への派遣が決まったのは、戦争が始まって3ヶ月を経て後の明治37年(1904)5月だったが、準備が遅れバルト海を出向したのは実にその年の10月だった。それから前代未聞の長い航海を経て日本へ向かうのである。

バルチック艦隊航路
バルチック艦隊航路

地図にあるとおり、バルチック艦隊はバルト海を出てヨーロッパを下りアフリカを回って日本へ着く。一部の船はスエズ運河を利用してエジプト経由で抜けたが、それは比較的小さい船のみであり、本体はアフリカを回るという大航海だった。

日本に来るまでに、実に半年もの航海を経ていたのである。

(2) 航行中のロシア艦隊の失敗と苦悩

バルチック艦隊を率いたのは、ロジェストヴェンスキー司令官である。この人類史上あり得ない大航海を任されたロジェストヴェンスキー長官は、なんとか成功させる。日本に行くだけでも大変であった。

ロジェストヴェンスキー司令長官
ロジェストヴェンスキー司令長官

北方の水兵達にとってアフリカ航路は慣れない暑さとの戦いであり、また、航海に重要な石炭の手配をロシア帝国がうまく出来なかった。日英同盟により当時の世界覇権国の大英帝国に逆らう国はなく、到着する港では非常に冷遇された。また石炭は、質の悪い物しか入手できず、大いに航海を難しくした。

ただでさえ大変な航海は、最初からつまづいた。艦隊が出航したのは10月15日だが、大英帝国(イギリス)沖を通るときに大失態を演じた。「日本艦隊が奇襲をかけてくる」と警戒しすぎたバルチック艦隊の船員は間違えてイギリスの漁船を沈没させて死者を出したのである(ドッガーバンク事件)。これには、覇権国イギリスの世論を烈火のごとく燃え上がらせたのみならず、他のヨーロッパ諸国の反感も大いに買った。航海最初のこのつまずきは、後にまで引きずることとなるのである。

冷静に考えれば、北欧にまで日本艦隊が奇襲をかけるなどとは無理なことが分かるのだが、それほどに神経質になっていたことがうかがえる。また「日本の奇襲」というのは日本側が流した偽情報だった、という説もある。

とにかく、ロジェストヴェンスキーの航海は途方もないものであった。自殺者や逃亡者も出る中でこれだけの艦隊を東の海まで無事進めた事は、やはり並大抵のことでは無かった。ロジェストヴェンスキーは「無能な将軍」という評価がつきまとうが、これほどの航海をしたことだけでも「無能」な人ではできなかった。

(3) 「これ以上の完全勝利をみたことがない」と賞賛された大勝利

日本海海戦
日本海海戦

このような状態のバルチック艦隊ではあるが、最新鋭の艦隊であることは間違いなく、世界最強のクラスの艦隊であった。先に記述したとおり陸戦ではなんとか勝利を得ていたが、日本の国力はほぼ尽きていて、ここでの勝利は絶対条件だった。

日本も急激ながら山本権兵衛を中心にこの日のために海軍を増強していた。当時のバルチック艦隊と日本の連合艦隊とは単純な戦力で言えば、ほぼ互角の所にまで来ていた。

連合艦隊旗艦 三笠(横須賀)
連合艦隊旗艦 三笠(横須賀)

日本連合艦隊司令長官は東郷平八郎バルチック艦隊を率いるのはロジェストヴェンスキー長官、その二つは明治38年(1905)5月27日、日本海にて激突した本格的な戦闘は14時頃に始まったが、なんとわずか30分で勝敗はほとんど決した。ロシアのバルチック艦隊は文字通り「壊滅的な」被害を受けて、38隻あった船団の内21隻が沈没、死者4,800人・負傷者6,100人にものぼった。対する日本の船はほとんど無傷と言ってよく、死者数は100人程度と、ロシア軍に比べて圧倒的に少なかった。
従軍した外国記者が「これほどまでの完全勝利を見たことがない」とまで言うほどのものであった。

日露戦争はこれにより、戦争を終結することとなった。ロシアはこれほどの完敗を受けて遂に、アメリカの講和の調停に乗り出したのである。

(4) 日本海海戦の勝利のその後

日本海の海戦は、奉天の会戦と異なり完膚なきまでの日本の完勝だった。これには世界中が驚愕し、今まで西欧列強に言いようにやられていたアジア諸国やイスラム諸国は、そのニュースに歓喜した。

東郷平八郎
東郷平八郎

東郷平八郎は一躍世界中の英雄となる。そしてそれは現在においても、世界の海軍からの尊敬される英雄の一人として数えられている。
それは必ずしもこの勝利だけのためではない。日本は勝利したが、すぐに海に投げ出されたロシア海兵の救出を行い、多くの命を救った。また、日本は「武士道精神」とも言える規律の高さで西欧の「国際法」を適切に守るべく、流れ着いた兵士も捕虜も丁重に扱った。その中に、バルチック艦隊司令官のロジェストヴェンスキーもいた。

東郷平八郎は、ロジェストヴェンスキーを見舞いに行っている。東郷は病室に入るとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気遣いながらゆっくり話したという。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流したという。

こうした日本のそして東郷平八郎の規律正しい行動は、世界中の喝采を浴びた。単なる勝利だけでなく、戦争における「世論形成」に大いに貢献したのである。

ただし、それは外見だけの話と言っていい。西欧列強は、この東の国のまったく存在を意識していなかった「大日本帝国」という国を強烈に意識し警戒をしたのである。

6.日英同盟なしでは勝利はあり得なかった

前回の記事と今回とで、日本の苦しい立場とそんな中でもギリギリの戦争をなんとか進めた。この日本の国力の無い中での悲壮なまでの努力は記述したとおりである。

しかし、あまり記述していなかったことがある。それは日英同盟の日露戦争に対する貢献である。あまり世の中に情報としては出てこないが、当時の文書等を分析すれば、いかに日英同盟がこの日露戦争の勝利のために機能したかが見えてくる。

当時の覇権国の大英帝国(イギリス)は、先に記述したとおり物理的にはロシアに嫌がらせをしたりして、バルチック艦隊を弱体化させている。それも非常に大きいが、当時から秘密情報機関を張り巡らせており、その情報が同盟国日本にもたらされた功績は、計り知れない。今のようにインターネットのない時代で、情報を取ることは相当高度な技術と組織が必要となる。日本も今に比べれば格段に情報網を張り巡らせていたが、大英帝国(イギリス)の情報はそのレベルが全く異なる。
それを得られた事で、日本は「この戦争の仕方で、このタイミングでの講和しかない」という針の穴に糸を通すより難しい戦争を成し遂げた。あまり語られないが、日英同盟なくしてこの勝利は絶対にあり得なかったのである。改めて、日英同盟を結ぶことを実現した当時の先人達の慧眼に感服するばかりである。

7.日露戦争を見て

日露戦争は、勝利の戦争であり、最後の日本海海戦は日本の英知を結集したまさに「完璧な勝利」だった。と終わってしまっては、日露戦争のほんの表面のごくごく一部を見たことにしかならない
ここでもまとめた通り、その「勝利」は「勝利」といっていいものではなく、「敗戦ではなかった」という事だった現代に生きる我々は、そこから学ばないといけないと思う。

日露戦争はあくまで迫り来るロシアや西欧の脅威を東アジア地区からなんとか取り除く事が目的で、それ以上を行うことは目的にないどころかそんな国力はなかった。日本は精一杯背伸びをして、かなりの無理と無謀な冒険の果てに「日露戦争」を選んだのである。その勇気は見習うべきだが、それに合わせてその裏にある緻密な分析と行動と決断を知ることが、現在を生きる我々が日露戦争から学ぶことのように思う
そして当時の冷徹な国際情勢は、今も全く変わっていない。そんな現在だからこそ、この冷徹な国際情勢をはねのけた日露戦争時代の日本を、正確に学び、次に生かしていくことが、先人達への恩返しであり、日本の未来への正しい進め方のように思う。

次回はシリーズ最後となる。「日露戦争のその後」を簡単にまとめる。是非、ご覧を。

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