- 2020-1-28
- 特集_日露戦争の背景に迫る!
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日露戦争の背景【1】当時の世界情勢と日露戦争の位置づけを見る
日露戦争の背景について、シリーズで記述したい。日露戦争そのものについては別の機会に記述したい。なぜ「背景」と「実際の戦争」とを分けたかと言えば、日本が世界に組み込まれていく最初の戦争であり、その背景や全体を見ないと本質が理解できないためである。そしてそれは、第二次世界大戦まで、もっと言えば今日まで続いている。日露戦争の頃を知ることは、現在を知ることと思う。是非ご覧を。
➡日露戦争の背景に迫る!【1】当時の世界情勢と日露戦争の意義
➡日露戦争の背景に迫る!【2】日本の政治情勢
➡日露戦争の背景に迫る!【3】 大英帝国・ロシアの状況
➡日露戦争の背景に迫る!【4】東アジア情勢
➡日露戦争の背景に迫る!【5】国の存続をかけた「悲壮の決定」と日本の総力戦
➡日露戦争の背景に迫る!【6】「勝利?」日本勝利の真実
➡日露戦争の背景に迫る!【7】戦争後の世界と日本
ページ目次
1.日露戦争の意義
日露戦争は明治の最後に行われた、日本とロシアとの戦争である。明治37年(1904)から明治38年(1905)に起こった戦争で、極東の地政学上のみならず世界における地政学を大きく変化させる非常に大きなインパクトを与えた戦争であった。
そして私の考える歴史の流れで言えば、この日露戦争の勝利の延長線上に「大東亜戦争」あるいは「第二次世界大戦」があると思う。
日露戦争の日本の勝利は、アメリカを含む西欧列強に日本という国を大きく意識させた。そしてそれに加え、その後の日本、あるいは日本人に大きな成功体験として刻まれてしまったのである。
戦争そのものの結論は、「日本が勝ったと一応言っていい」状況で終わった。本来は「完全勝利」とはほど遠く、日本は局地戦では勝利したが国力では全く歯が立たず、これ以上戦争は続けることが出来なかった。
それでも、この勝利は歴史上でとてつもなく大きかった。その後の世界に与えた影響も計り知れない。何が歴史に大きな影響を与えたか。いろいろな言い方があるが、大きく言えば下記の点といえると考える。
・ 東アジアにおいて、日本という強国が世界に知らしめられたこと
・ 日本や日本人にとって、強国にも勝てるという「成功体験」となってしまったこと
ヨーロッパを中心とした白人が「植民値支配」というものを始めたのが「大航海時代」と考えれば、それが始まった15世紀半ば(1450年頃)から世界は白人の列強の思うがままだった。それに初めて「非白人」が反抗しかつ勝利したのが、この日露戦争である。そして白人でない日本が勝利したことは、世界史上とてつもない歴史の一ページだった。
ある学者が日露戦争の勝利を「500年に一度の大事件」と言ったことを聞いたことがある。その表現は、まったく現実に即したものだった。それほどの大事件だったのである。
そしてその後の日本と世界の歴史の流れを見る上でも、この日露戦争は大きなターニングポイントであった。日露戦争のわずか10年後に第一次世界大戦が起こる。日本の教育ではほとんど触れられないが、当時の日本は日英同盟を基軸にこの戦争(第一次世界大戦)に参加し、大きな戦果を得ていた。
そしてその後に「ロシア革命」が起こりソビエトが生まれ、世界は「共産主義」という名の新しい動きが始まり、そしてそれは次の「第二次世界大戦」にもつながる大きな要因となっていく。
とはいえ、日露戦争は日本が単独で勝利したものではない。「日英同盟」があったからこそ勝利できた。しかし、日英同盟こそ結んでいるがまさか日本が勝つとはだれも思っていなかった。それはその前の日清戦争も同様であり、この二つの戦争の日本の勝利は日本というアジアの黄色人種の国に対して、欧米は強烈な印象と大きな恐怖感と共にかなり強い警戒心を持たせることになった。
一方、列強にいいようやられていたアジア諸国は歓喜した。白人国家に有色人種国家が勝利したのである。世界史の大きな転換点の一つともいえるこの日露戦争の日本の勝利は、その後の2度の世界大戦へ日本が組み込まれていく上で、非常に重要な伏線となっていたのである。
2.当時の世界情勢
(1) むき出しの帝国主義時代と「世界5大国」
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ペリーの来航は1853年で、その後の混乱を経てその15年後に明治となる。その頃の世界情勢としては、とにかく世界中で戦争ばかりの状況であった。
上記の通り、世界各地での戦争があった。そしてその構図はすべて、「欧米列強による植民地戦争」か、「欧米列強同志の戦争」か、の二つであり、欧米列強が絡んでいない戦争は、ほぼ皆無といっていい。
それほどまでに、欧米は拡張主義に走っていた。その中心は、いわゆる「5大国」といわれる国々である。
・陸の強大国のロシア帝国
・ヨーロッパの強国フランス
・プロイセンを中心として統一された新興国家のドイツ帝国
・ハプスブルグ家の旧勢力として存在したオーストリア(ハンガリー)帝国
この5大国に加えてアメリカがその存在感を増してきていた。アメリカは、独立間もないが、ついに西海岸まで開拓を進め急速に力をつけてきた。
これらの諸国に共通するのは、いち早くはイギリスであるが、産業革命を経ていたことである。それにより他の列強以外を圧倒する国力をつけ、その市場を求めていた。
そしてそれが、ついに西から、アジアの極東まで広がり、清はすでに19世紀の前半の時点でほとんど割譲状況にあった。そして陸からは、ロシアが「シベリア鉄道」により、猛烈な勢いでその脅威を増していたのである。
それが、明治期の19世紀後半の世界であった。地図にある通り、それによる戦争が世界各地で行われ、国力のない国は悲惨な末路をたどっていた。人口の半分が死滅した地域もある。ほとんどの国は屈服せざるを得ない状況であった。まさにむき出しの「帝国主義」が世界を占めていた。
(2) 列強等の状況
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その頃の列強の各国の状況は、下記のとおりである。
上記の通り、明治期の世界はなにも日本だけが変革の波にいたわけではなかった。イギリスは世界帝国としての新たな段階を踏もうと進んでいたが、アメリカの独立を許し、ロシアはクリミア戦争に敗れ大きく国の見直しと戦略の転換をはかり、ドイツは生まれたばかりの状況の中で、ヨーロッパで微妙なパワーバランスを取りながら進んでいた。アメリカは南北戦争という国を2分しての大戦争を終えて、今の西海岸まで勢力を伸ばしたばかりの状態であった。
世界各国もまた大きな変革の中にいたのである。そしてこの頃から「帝国主義」といわれるようになる。明確な定義はないが、力を持った国がその力で他国をねじ伏せて「植民地」としていくむき出しの時代であった。
(3) 当時の支配体制
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「帝国主義」と言われる時代はまさにこの時代であった。しかしこの「帝国主義」という言葉はどうも定義がはっきりしない。この言葉は、この時代の少し後のロシア革命を主導したレーニンの著書により定義されたようである。いろいろな言われ方を見れば「植民地支配を土台とした列強の支配体制」といったところと思う。そしてそれは日本にはあてはまらないと断言できる。日本ではいわゆる「植民地支配」などという「支配」をしたことは無かったからである。
しかし一方で、この「帝国主義」の語源は「皇帝国家(インペリウム:imperium)」から来ている、と考えれば、2000年以上続く天皇陛下を頂く日本は当てはまるだろう。その視点でヨーロッパ列強を見ていくと「皇帝」による国家と「皇帝」そのものが最も活躍していた時期だった、といえる。
当時の「皇帝」と呼ばれる人を図示してみた。上記の地図がそれに当たる。清の西太后は皇帝ではないが、皇帝のように振る舞っていたことからあえて皇帝として表示した。
大英帝国:ヴィクトリア女王
ロシア帝国:ニコライ2世
オーストリア(ハンガリー)帝国:フランツ・ヨーゼフ1世
ドイツ帝国:ヴィルヘルム2世
清:(西太后)
そして驚くことに、この半世紀後には日本の明治天皇と大英帝国のヴィクトリア女王を除く全員が「ラストエンペラー」となりまさに「最後の皇帝」となるのである。いわゆる「君主制」を廃止し、「共和制」となっていく。
3.「産業革命」と「第二次産業革命」
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日本や世界の歴史を見る上で、最も重要なファクターは「経済」である。そしてこの時期において必ず理解しておかないと行けないのが、この少し前に始まっている「産業革命」である。なおここでいう「産業革命」は「第一次産業革命」を指す。
産業革命は、大英帝国となったUK(イギリス)からいち早く始まった。1760年頃から始まり1830年頃まで続いたと言われる。その後
UK(イギリス) → ベルギー・フランス・アメリカ・プロイセン(ドイツ)・ロシア・日本
と展開された。日本にて産業革命と言われるものが始まるのは、明治維新期といわれる。
この産業革命の定義は難しいが、一般的に言えば「工業化の革新による生産力の飛躍的な向上とそれに伴う影響」を総称して「産業革命」と定義していいと思う。ここでの最も重要な要素は「工業化」と「石炭エネルギーの利用」である。生産を集中化・効率化していくとこで、産業革命を経た国の「生産能力」は飛躍的に上昇した。
また「石炭エネルギーの利用」により「蒸気船」や「鉄道」を製造する。また「運河」の建設もこの頃に大きく飛躍した。これにより、人類の移動は手段は飛躍的な発展を見ることになる。「交通革命」とも言われるのは、この頃の技術革新により飛躍的に増大した交通手段を指す。
例えばで言えば「蒸気船」は1807年にアメリカのフルトンによって実現した。それまで帆船により移動していた海洋手段は、まったく違う段階に入った。風を動力としていた帆船とは全く発想が異なる動きが可能となったのである。
そしてそうした技術の革新がロシアのシベリア鉄道を生み、日本とロシアが争う大きな要因を作り出したのである。
そしてもう一つの産業革命が日露戦争の頃にあったことも非常に重要である。「第二次産業革命」と言われる時期は19世紀後半と言われ、1865年頃から1900年頃を指す。
この第二次産業革命は、鉄鋼・機械・造船などの分野が飛躍的に発展した。この第二次産業革命には、工業の重商化と、それを支えた石油化学の発達、という特徴がある。それはそのまま当時の「帝国主義」に合致し、西欧は植民地支配を争って進めていったのである。あるいはその技術革新そのものが欧米を「植民地支配競争」に駆り立てていった、とも言えるかも知れない。
4.西欧列強の各国の動き
(1) 世界帝国イギリスの動き
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19世紀後半のイギリスは、ヴィクトリア女王の時代(1837年~1901年)とぴたり当てはまる。そのため、このイギリスの全盛期は「ヴィクトリア朝」とも呼ばれ、政治・経済・軍事・文化、あらゆるものが「ヴィクトリア朝の~」と形容されるようである。
いち早く産業革命を経ていたイギリスは、まさに世界帝国といわれる黄金期を迎えていた。
上記の地図の赤いところが、すべて「大英帝国」である。まさに世界中に植民地を設けて、その支配を広げた。相当な虐殺も含まれており、国の人口の半分を消した戦争もある。イギリスは早くから議会が成立していそれに基づき政治を行っていたが、結果だけ言えば議会があっても「帝国主義」を追認する機関でしかなかった。
また19世紀のイギリスというより世界史上で大きいのが、「スエズ運河」の開通とそれをイギリスがエジプトから買収したことである。
これを実行したのは、時の首相ベンジャミン・ディズレーリである。ユダヤ系であるディズレーリは、本来フランスにわたるはずだったスエズ運河の権利を、エジプトの財政難をすばやく把握し、ロスチャイルド家というユダヤ系の人脈をフルに利用して、イギリスがスエズ運河の権利を入手することに成功した。
このスエズ運河の開通により世界の航路は全く様相を変え、またその権益を持ったイギリスには大きな経済的・軍事的優位が築かれた。
この世界帝国のイギリスが、「栄光ある孤立(Splendit Isolation)」として、どこの国とも同盟を結んでいなかった中で、1902年にアジアの極東の日本と同盟を結んだ。それについての詳細は先述した通りだが(➡明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争)、これはイギリスの国家戦略も大きく反映していた。海洋国家イギリスに対して、陸のランドパワーのロシアを抑え込むことは、イギリスにも必要戦略であったのである。まさか、その後の日露戦争で日本が勝つとまでは思っていなかったようだが、イギリスにとってロシアを抑え込むことは、自分の植民地を広げる上で、重要な戦略であった。
(このころのイギリスの詳細については、過去記事参照➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本)
(2) ヨーロッパの均衡状況とドイツ帝国
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ドイツは19世紀後半から20世紀の2度の世界大戦にわたり、ヨーロッパで台風の目となっていく。しかし、19世紀後半の最初の頃(1850年頃)にはまだ「ドイツ帝国」は存在していない。
ドイツの前に、その前身ともいえるプロイセンがあり、そして、それを強力に引っ張り「ドイツ帝国」までもっていったのが、ビスマルクである。そしてそのビスマルクと対立しビスマルクの次にプロイセン(ドイツ)を引っ張ったのが、皇帝のヴィルヘルム2世である。
ビスマルクは1861年にドイツの一地方であるプロイセンの宰相となった、ビスマルクはそれまで比較的農業国的要素が強かったドイツ地方を、プロイセンを引っ張る形で軍事を進めた。折しも、産業革命がヨーロッパ中に広がっていた頃であり、ものすごい勢いで軍事大国となっていった。有名な演説を1862年に行っている。「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」、いわゆる「鉄血宰相(てっけつさいしょう)」と言われるゆえんで、プロイセンおよびドイツのためにひたすら富国強兵に努めた。なお、「ドイツ帝国」は1871年にプロイセンがフランスとの戦争で勝利した「普仏戦争」の後に成立している。
ビスマルクはその芸術的ともいえる外交バランスで、ヨーロッパの均衡を図りながらドイツを大きくした。しかし結局ビスマルクにしかできない外交であった。ビスマルクが皇帝に罷免され、ヴィルヘルム2世の時代になると、様相が一気に変わる。
ビスマルクが最も恐れていた、フランスとロシアが直ぐに露仏同盟を結び(1890年)、更にイギリスとの対立まで発展していき、そしてドイツは結果的に二つの世界大戦へと突き進んでいくのである。
ヴィルヘルム2世は、とにかく野心的・好戦的で、列強の帝国主義にドイツとして積極的に参加した。後の世界をかき乱した人で、「ヒットラーの先輩」とまで言われる。
29歳にして即位すると、そりが合わなかったビスマルクを罷免し、自らの親政を開始する。アジアに対する野心も積極的にもち、China(中国)の分割にも参加した。また、ロシア・フランス・ドイツによる日本への「三国干渉」(1895年)は、ロシアの矛先を、バルカン半島から極東に向けさせるために、ヴィルヘルム2世のドイツが主導したという見方が正しいようである。また、アジア人に対する差別を進めるための「黄禍論(こうかろん)」を積極的に用いたのも、このヴィルヘルム2世である。その後の白人社会のアジア人差別の世論形成に大きく関与している確信犯である。
更にヴィルヘルム2世のドイツは、イギリスに対抗すべく海軍を増強し、ヨーロッパの火薬庫であるバルカン方面にも進出、さらに「3B政策」と言われるベルリン(ドイツ)・ビザンティウム(トルコ)・バグダート(中東)を結ぶ鉄道を計画した。イギリスの3C政策とも激しくぶつかった。イギリスはこの頃には「光栄ある孤立」政策は断念しており、日英同盟に続き「3国協商」と言われる体制を構築。完全に、ヨーロッパに大国同士の対立構造が生まれていた。ヴィルヘルム2世が、第一次世界大戦の原因を作ったといわれるゆえんである。
(このころのイギリスの詳細については、過去記事参照➡明治維新とヨーロッパ世界【4】 ビスマルク外交とその終焉)
(3) ロシアの南下政策への渇望
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ロシアの19世紀後半における極東の進出については、まずクリミア戦争を理解しないとその内容がつかめない。クリミア戦争は、日本にペリーが来航したまさにその年の1853年に起こった戦争である。
クリミア戦争は、ロシアがオスマン帝国の弱体化に乗じて、その宿願たる南下政策を進めようとしたことに端を発する。結果的に世界最強国のUK(イギリス)を相手にしたことでロシアは完敗した。
クリミア戦争は産業革命を経た後の初の大規模戦争であった。兵器は発達しており、その犠牲者は何十万にも及び、戦争は悲惨を極めた。
こうしてロシアにとっては大きな敗北となったクリミア戦争後、ロシアは農業国からの脱皮を図る。それにともない、産業革命を経て鉄道能力も大きく向上していった。その結果が「シベリア鉄道」である。
この頃、ロシアの皇帝は「ニコライ2世」の治世に移っている。クリミア戦争に敗北した後のロシアは、極東への関心を強くした。凍らない港である「不凍港」をなんとしても得たいロシアであったが、クリミアで断念をみる。そしてその後は、シベリア鉄道の建設も伴い、極東に大きな関心が寄せられたのである。極東にはヨーロッパの列強はいない。あるのは、ほとんど割譲が進んでいる「瀕死の大国 清」がいるのみで、日本などはほとんど眼中にも入っていなかった。従って、こちらから海に出ることは容易と考えていたのである。
一方で、これを防ぐべく考えていたのがイギリスである。しかしイギリスはこの頃アフリカでの「ボーア戦争」に忙殺されており、なんとか日本にロシア帝国の拡張を押させる役割を期待したのである。それが「日英同盟」の背景にあった。
(4)「強大国」への道をひた走るアメリカ
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アメリカは、まだ建国後間もない状態であり、19世紀後半にはアメリカ史上最大の内戦である「南北戦争」を行ったばかりであった。
アメリカ南北戦争は、アメリカ史上最大の内戦と言われる。1861年から1865年にかけて行われ、犠牲者は60万人以上ともいわれる。第二次世界大戦でのアメリカの犠牲者が35万人と言われるから、それをも大幅に上回る内戦だった。内戦というより、戦争という表現の方が正しい。奴隷制の廃止を主張するリンカーンがアメリカ合衆国(USA)の大統領に就任すると、続々とそれに反対する州が合衆国から脱退しアメリカ連合国(CSA)を結成しその大統領も選出した。アメリカ合衆国(USA)から分離した、アメリカ連合国(CSA)との戦争、が、南北戦争の構図である。
奴隷解放が象徴のように言われるが、もともとあった北部と南部の地域的な性質の違いに根付いており、対立は抜き差しならないものであった。
結果的には、リンカーンが率いる北部が勝利した。これによりアメリカはようやく一つの国としてまとまったと言える戦争であった。これ以前はアメリカ人も外国人も、「The United States are ・・・」と複数形で呼ばれていたという。それがついに一つとなり、また、北部ではすでに産業革命が始まっていたため、それに南部も加わったことで、世界の強大国として大きく一歩を踏み出したこととなる。
南北戦争を経て、また、産業革命を経たアメリカは大国として、その存在感を見せ始める。その後のハワイの侵攻(1893年)、そしてフィリピンのスペイン支配からの独立をへの侵攻である米比戦争(1899年)と、ヨーロッパ列強同様の領土的拡張を始めていくのである。もはや、「新興国」という文言は当てはまらなくなってきていた。
5.日露戦争の日本勝利という世界的衝撃
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このようなヨーロッパや白人中心の世界情勢に、突如登場したのが明治維新を経ていた日本という国だった。そして事もあろうに、世界の2大巨頭の一角であるロシアと戦争をし勝利したのである。
先にも記述したとおり、この勝利は当時の世界最強の「大英帝国」との同盟(日英同盟)があったからこそである。しかし、その同盟を結んでいた大英帝国(イギリス)ですらまさか日本が勝利するとは思っていなかった。それほどの世界ニュースであったのである。
この勝利はアメリカを含む西欧の列強に、アジアの最も東の地域に「日本」という国があることを強烈に印象づけた。この後の世界のアジア戦略は、いかに日本と付き合うか、あるいは日本を押さえつけるか、が最も大きなテーマとなったのである。残念ながら人種差別もあり圧倒的に後者の考えであったが・・・。
その行き着いた先が後の「第二次世界大戦」あるいは「大東亜戦争」であったといえる。
6.第一次世界大戦とその後の世界情勢へ
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日露戦争は歴史の流れ上、大きなターニングポイントといっていい。それは、日本だけでなく世界にとってもである。
第一次世界大戦は、日露戦争の10年後の1914年に起こる。日本は大正に入ってすぐ(大正3年)の頃だった。この記事のシリーズは日露戦争であるから第一次世界大戦に大きくは触れない。しかし、日露戦争の勝利はその後の世界に大きく影響を与えたことは重要である。
日露戦争の勝利によって日本は「大国」としての認識がされることになった。単に「形の上では」ということではあるが、日本は「大国」の一つとして数えられるようになっていたのである。
第一次世界大戦は、本来はヨーロッパの戦争であったが、大いに日本も関係した。そしてそれは、日本が好むと好まざるに関係なく、欧米との軋轢を生み、そして隣国で対立するシナ大陸との駆け引きも激しくなっていく。そこに、ロシア帝国の崩壊を引き起こした「ロシア革命」が第一次世界大戦の直後に起こる。それにより「共産主義」という勢力が世界を席巻し、大きな世界情勢のうねりに日本の運命が大きく左右されていくことになっていく。
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