- 2020-2-15
- 特集_日露戦争の背景に迫る!
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日露戦争の背景【4】東アジア情勢(清・朝鮮)を見る
「日露戦争の背景に迫る!」のシリーズの4回目である。ここでは東アジア情勢と日本の関係についてまとめた。日露戦争でなく「日清戦争」の頃の記述が多くなったが、それほどに「日清戦争」と「日露戦争」は関係が深い。是非、ご覧を。
➡日露戦争の背景に迫る!【1】当時の世界情勢と日露戦争の意義
➡日露戦争の背景に迫る!【2】日本の政治情勢
➡日露戦争の背景に迫る!【3】 大英帝国・ロシアの状況
➡日露戦争の背景に迫る!【4】東アジア情勢
➡日露戦争の背景に迫る!【5】国の存続をかけた「悲壮の決定」と日本の総力戦
➡日露戦争の背景に迫る!【6】「勝利?」日本勝利の真実
➡日露戦争の背景に迫る!【7】戦争後の世界と日本
ページ目次
1.日本の完全勝利で終わった日清戦争と下関条約
日清戦争については、どうも間違った認識がなされていると思う。もしくは、全く印象にない戦争となってしまっている。
しかし、日露戦争を見るうえでも日清戦争の内容は知っておかないと流れが見えてこない。
日清戦争にまつわる誤解を整理しておきたい。
→ まったくの嘘。日本はアジア侵略を進める欧米を非常に恐れていたため、清国・朝鮮半島とうまくやっていこうと努力したが、ことごとく裏切られ失敗。戦争に至る。
② 日清戦争は清国で行われた戦争ではない
→ 日清戦争の舞台はあくまで朝鮮半島である。清国と明治日本は引き込まれるように朝鮮半島で戦争を行った。しかも場所は朝鮮半島だが、そこに朝鮮の軍勢はいない。
③ 日清戦争は楽勝ではなく、「かろうじて」日本が勝利した。
→ 日本と清国との戦力差は、むしろ清国の方が断然優勢であった。戦争そのものを見ると、清国のもろさから日本は助けられた形で次々と勝利したが、必ずしも「楽勝」ではない。非常に厳しい戦いだった。
そして上記の誤った認識とは裏腹に、日本は苦渋の決断の中で戦争を行わざるを得なかった。そこに至るまでの年表を下に示す。
それほどの苦しい状況の中での戦争であった。また、近代日本にとって初めての対外戦争であった。
そして、「完全勝利」といっていい戦果を上げて勝利した。
その結果として行われた「下関条約」により、日本は、遼東半島・台湾を含む大きな版図を得ることになる。そして、その第一条にあるとおり、「朝鮮を正式な国として扱う」とさせた。明らかに清国をけん制し、朝鮮半島に独立を促すものであった。朝鮮半島に取っては過去からの属国を離れた、歴史的条約であった。
2.三国干渉とその後の世界
(1) 三国干渉とは
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日清戦争に勝利し、下関条約が明治28年(1895)4月17日に調印される。しかし、これで戦争は終わらなかった。そのわずか6日後の4月23日に、ロシア・ドイツ・フランスの三ヶ国が、日本に対して「勧告」をおこなってきた。これが「三国干渉」である。
内容は、日本が日清戦争の結果得た領土の「遼東半島」を清国に返すというものであった。
当然日本側は強く反発したが、当時の世界の5大国のうち3ヶ国から来る勧告を受けて断れるはずがないことは明治政府は分かっていた。どの1ヶ国でも戦争すれば絶対に勝てないという国力差であった。
かくて、受け入れざるを得なかった日本はこの「三国干渉」を受け入れた。ただし、ここでこの三国干渉というよりロシアに干渉するように求めたのは、かの清国の李鴻章であることを触れておかないといけない。China(中国)の伝統的な「以夷制夷(いいせいい)」という考えに基づくもので、外国を以て外国を制する、といういかにもChina(中国)らしい考え方の末の行動であった。
とはいえ、その後結果的に遼東半島はロシアが占領する。だまし合いの国際政治の現実である。
(2) ヨーロッパ列強の思惑
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日本にとっては考えられない高圧的な「威圧」である「三国干渉」であった。しかし、これを日清戦争の下関条約後わずか6日で行ってきたという事実は、当時の日本が警戒していたとおり本当の敵は西欧列強であったことを、如実に表した。
特に極東に目を向けていたのは、当然ロシアであった。ロシアは当時とにかく国土のほとんどが「凍土」で、1年を通じて凍らない港(不凍港)を心より欲していた。一方でヨーロッパでの南下は「クリミア戦争(1853年)」に敗れて以降、完全に封鎖されていた。そこで目をつけていたのが、極東だったのである。なお、ロシアの政治は当時の皇帝ニコライ2世にて行われていた。この後ニコライ2世は、日露戦争・第一次世界大戦を経て、ロシア革命により家族ともども虐殺され、帝政ロシアといわれるロシアの最後の皇帝となった人である。
しかし、三国干渉はロシアだけの思惑ではなかった。むしろ「黒幕」的存在がこの三国干渉の陰の主役であった。ドイツのヴィルヘルム2世である。そのころのドイツは、複雑なヨーロッパ外交を切り盛りしたビスマルクが、新しい皇帝ヴィルヘルム2世と対立して失脚した後である。
ヴィルヘルム2世はとにかく好戦的な人であり、また徹底的な差別主義者であった。「覇権主義」を絵に書いたいような人で、後の第一次世界大戦の原因とまで言われる人物である。当時ドイツもアジアに対する触手を伸ばしていて、せっかくの清国の分裂が始まったところに、日本という強国を見逃す訳にはいかなかった。もちろん、この頃ではまだ「強国」という認識はされていなかったが・・・
ロシアのニコライ2世の親戚でもあるこの人物が、この「三国干渉」を大きく主導したことは間違いない。なお、ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦の主因の一つとして非難を受け、ドイツ国内での運動(ドイツ革命)もあって、最終的にはオランダに亡命している。
また、フランスは当時ナポレオン3世によるいわゆる「第二帝政」が失敗し、再度「第三共和制」となっていた。議会による政治運営が再度試みられているころである。そのフランスにとって、ロシア・ドイツとの関係維持のために協同した。
(3) 日本における議論の高まり「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」
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では、日本はどうだったか。そうした列強による理不尽な干渉は、当然国民の知るところとなった。また、先にも書いたとおり日清戦争は日本にとっても大きな痛手を被っており、その苦労をして得た領土を大国の全く勝手な「干渉」によって返すということに、大反発が起こっていた。
しかし、時の首相の伊藤博文公、そしてカミソリ大臣の異名をとる陸奥宗光(むつむねみつ)外相は、日清戦争に勝てば列強が干渉してくることは予想していた。だからこそ、「やり過ぎ」とまでいえる下関条約を結んだと言われる。すなわち、少し多めにとっておいて列強の干渉に備えたのである。
とにかく、日本は全く理不尽きわまりない「三国干渉」を受け入れた。結果生まれたのが、特にロシアに対してのスローガン「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」である。「この恨みは絶対に忘れずに、富国強兵に努めよう」というものであっった。
すなわち、ロシアへの脅威はそのままロシアへの敵意となり、そして具体的に考えざるを得なかったことを認識し始めたのである。この10年後に起こる世紀の大戦争である「日露戦争」の芽は、ここで十分に育っていったのである。
3.まったく安定しない朝鮮半島と付け狙うロシア
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ここで、朝鮮半島で起こった珍事に触れておきたい。この日清戦争に至るまでに散々朝鮮半島を混乱させた閔妃(びんひ)は、朝鮮半島の伝統である「事大主義」を貫いていた。すなわち、
という、いかにも朝鮮らしい考えでロシアとの接近を図っていた。ところが、その頃に閔妃(びんひ)は暗殺されるのである。明治28年(1895)の10月8日であった。「乙未事変(いつびじへん)」とも呼ばれる。
犯人はいまだに謎となっている。しかし、日本犯人説がまかり通っていると言うから、朝鮮という国は救いようがない。実際の暗殺は宮廷の中で行われたという。数々いる女性の中から閔妃(びんひ)だけが殺害されていて、閔妃を詳しく知る者以外が可能な状況ではなかった。となると、対立していた「大院君(だいいんくん)」が最も有力と考えれる。
また、閔妃の後の朝鮮半島もひどい者だった。高宗の時代となるのだが、その統治能力はひどいものであり、相変わらず民は苦しみ国は貧しくなっていったのである。しかも高宗は、国内の混乱から逃れるためになんとロシアに助けを求め、ロシア大使館にて政務を行った。これを「露館播遷(ろかんはんせん)」という。明治29年(1896)に起こり一年近く続いた。朝鮮半島のロシア支配はどんどん進んでいったのである。
日本が危険を冒してまで行った日清戦争で、その目的である朝鮮半島の安定化・近代化は、全くすすむどころかロシアの支配を強めていったのである。
4.日清戦争後の清の情勢
(1) 清国での近代化運動(戊戌の変法)とその失敗
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では、日清戦争後の清はどのようになっていったか。
もともと日清戦争がなくとも、清国の列強による割譲はどんどん進んでいた。アヘン戦争(1840年)は第二次アヘン戦争といわれるアロー戦争(1856年)をへて、いよいよ割譲は進んでいった。そこには日本も入っているが、とにかく清国はその統治能力を失い、国としての統治はかろうじて北京など周辺に限られた土地にて維持していた。
清国は、西太后が全てを仕切っていた。垂簾聴政(すいれんちょうせい)と言われ、皇帝が若い内には皇后や皇太后が変わって政治を行っていた。国をまとめる気はまったくないが、政治力だけはやたらにある西太后の世は、国を滅ぼしつつ続いていった。
しかし、かといってChina(中国)でも改革の機運がなかったわけではない。
日本の明治維新に習おうと1898年に行われた「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」と呼ばれる改革がそれにあたる。当時の若い皇帝である光緒帝(こうしょてい)も加わり進めようとしたが、あまりに急すぎたため「百日維新」とも言われ失敗に終わる。指導者の康有為(こうゆうい)の見通しの甘さが、運動を失敗させた。もともと「日本に出来たのだからChina(中国)でも」というあまりに甘い見通しで進め、一時は時の英雄である、李鴻章(りこうしょう)や袁世凱(えんせいがい)も味方につけたが裏切られ、結局西太后とも折り合いが悪くなり、失敗した後に断罪された。
「変法自強運動」とも言われるこの運動は、わずか3ヶ月で挫折を見たのである。
(2) 義和団の乱
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その中で起こったのが、「義和団の乱(義和団事件)」と言われる、排外運動である(明治34年:1901)。もともと「義和団」といわれる宗教集団を名乗る団体が、片っ端から襲撃していくという荒っぽい物だった。その集団が、China(中国)における外国人排外を進めたのである。しかも、取り締まるべき西太后がこれを支持し、あろうことか連合国に対しての宣戦布告という事態に陥ったのである。
この頃の清国の混乱ぶりは、ひどいものであった。一方で、列強各国は割譲を進め清国の中に大使館が建てられ、欧米居留人が増えていった。
この事件が象徴するのは、いかに清国が末期的状況にあったかと言うことである。テロ集団と連携して活動するなど、もはや国とも言えるレベルでなかった。こうした単なるごろつきの集団の襲撃すら取り締まるどころか賛成し、排外を狙った。結果、清はこのおよそ10年後、辛亥革命(しんがいかくめい)にて滅ぶ。あまりにも必然の歴史と言える。
(3) 「北清事変」と満州に居座るロシア
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1900年、1901年に起こった清での民族決起が義和団事件である。そして、義和団や清が占領する各国公使館を襲撃し、これを連合軍が鎮圧した事件を「北清事変(ほくしんじへん)」という。義和団事件と北清事変は同じようにとらえられるが、正確にはこのように区別される。
英・米・日・仏・露・独など8カ国連合軍が出兵し鎮圧にあたった。結果、暴動は抑えられ1901年清は謝罪した。ただし、真面目に取り締まったのは日本だけである。これにより列強の日本に対する信頼、あるいは大国の一員としての認識をした。「極東の憲兵」と呼ばれたのである。ここで活躍する柴五郎中佐の話は過去記事を参照いただきたい(➡明治維新とヨーロッパ世界【4】 ビスマルク外交とその終焉・奇跡の日英同盟と柴五郎)
そしてロシアは、これを口実に満州に居続けることとなるのである。
そして地政学的に、それらの衝突場所となるのが、「遼東半島」であり「満州国」であった。これらの地は大陸と極東が接する重要地であり、ここの地域を制することは、大きくその一帯の権益を握ることになるのである。
ロシアがそこに目をつけたことは当然だが、後のアメリカやイギリスも満州などに大きく触手を伸ばそうとしていた。だからこそ、それに触れた日本に対して警戒と恨みを高めたのである。
遼東半島のあたりの地域は、世界の大きな紛争を引き起こす地域となっていったのである。
5.日露戦争の頃の東アジア情勢を見て
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「日露戦争」を見るには「日清戦争」とその頃の東アジア情勢をよく知らないと、実態が見えてこない。日清戦争は日露戦争の導火線となっている。そして、その日清戦争を引き起こしたのは、清国と朝鮮との外交をことごとく裏切られたことと、朝鮮半島の政情不安であった。
そしてもっと言えば、列強によるアジア支配の触手がそうさせたのであった。
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