誤解されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず~」の福沢諭吉の真意と「学ぶ事」の重要さを考える
前にも取り上げたが、再度、幕末の一人の名士とも言える、福沢諭吉の最も有名な言葉の一つを取り上げたい。まったく誤解されているこの言葉は、よく見ると今の日本と日本人にもピタリと当てはまる。むしろ「人は平等ではないからこそ」という強い意志が込められた言葉である。是非ご覧を。
1.「天は人の上にひとを造らず人の下に人を造らず」と云へり
有名なこの言葉は、誤解されて伝わっていることも有名である。一番有名なさわりの部分の言葉はアメリカ独立宣言から取られたといわれる。
しかし、むしろ福沢諭吉先生は「平等ではない」と言っているのである。福沢諭吉先生の言葉も含めた全文は、少し長いが以下の通り。
されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。
読んだとおりではあるが、あえて現代訳の例を示すと下記の通り。
人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?
それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。
人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。
福沢諭吉先生の言葉にあるとおり、『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と云へり」とある。すなわち「云へり」(言うが)の後ことが福沢諭吉先生の思いが込められている。
2.まったくの大嘘だったアメリカ独立宣言の「平等」
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一方のアメリカ独立宣言について、触れておきたい。
アメリカ独立宣言は、1776年の7月4日に採択された。アメリカの13の州が当時の覇権を握っていた大英帝国からの独立を宣言したものである。今でもアメリカではこの日を「独立記念日」としている。
日本の明治維新は、ペリーの来航の1853年を皮切りに動きが加速することから、アメリカ独立宣言は大体明治維新の100年前、と考えればいい。
その独立宣言の中に「全ての人間は平等に造られている」とうたわれている。原文で抜粋すると、「We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, ・・・」とある。
一見すると理想の高い文言に見えるが、歴史を知ればこれほど事実をねじ曲げた宣言はない。アメリカ独立宣言を起草した13の州はすべてヨーロッパからの移民であり、先住民である「インディアン」をすさまじいまでに虐殺した。その上で「本国の大英帝国から自由になりたい」ということから独立戦争となり、結果的に「独立宣言」となった。彼らのいう「人間」とは決して「人類全部」ではなく、結局「自分達」のことだけである。先住民の「インディアン」、アジア人、もっと言えばキリスト教徒以外の人々、は、そもそも「人間にも入っていない」というのが、当時の実状だったことをよく知る必要がある。
福沢諭吉先生のみならず、明治維新を引っ張った幕末の志士達は、こうした国際政治の冷徹な現実をよく知っていた。だからこそ「日本が強くないといけない」と「富国強兵」を急いだのである。
そういう事実を見てくると、福沢諭吉先生がわざわざ「天は人の上にも人を作らず、人の下にも人を作らず」という言葉を使ったのは、強烈な皮肉にすら思える。アメリカの現実を見て「どこが平等か!」と憤っていたと推測する。
『人間はもともと平等ではない。そして敗者は悲惨な道を行く事になる。だからこそ、日本国民は「学問を学ぶ」必要がある!』と考えたのが福沢諭吉先生の情熱だったのではないだろうか。「学問のすゝめ」を読むと、そうした福沢諭吉先生の強い情熱と、深い憂慮が感じられる。そしてそれは、現在も同じと思う。
3.学問の重要さを説いた福沢諭吉先生
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福沢諭吉先生は、当時でもベストセラーとなった「学問のすゝめ」の著者である。広く「学問」の重要性を説いたこの本は、誤解が多いように思う。今回取り上げた言葉も、「人類平等」などという、まったく違った解釈がまかり通っている。
しかし、福沢諭吉は理想論者ではない。徹底的なリアリストであった。学を修めることの重要性を切々と説いている。
そしてそれは、開国間もない明治日本にだけ向けての話ではない。「学問のすゝめ」を読んだ者としての感想は、福沢諭吉先生が言っていることは、決して開国間もない日本に限定した話ではない。広く現在にもまったく当てはまる普遍的は考え方であると確信する。
「学問のすゝめ」は現在にも生きる名著と思う。ここで取り上げた以外にも、勉強になることが満載である。まんがや分かりやすい本も出ているので、是非、手に取って読むことをお勧めしたい。
4.いくつになっても「学問」を
自分もずいぶん年を重ねた。しかし、「学問」の大切さ、勉強することの重要さは、年を追うごとにむしろ強く思う。
勉強は子供や学生だけがするものとは思えない。むしろ大人になって社会に出たら、なおさら専門あるいは広い知識を持つことが重要であり、またそうした勉強は楽しいと思っている。
テレビや新聞のマスコミは全く勉強せずに感情的な事だけを煽っている。そうした「嘘」や「デマ」に踊らされないためには、「学を修める」事と思う。
いくつになっても、福沢諭吉先生のいう「人学ばざれば智なし」という言葉を胸に、楽しみながら勉強をしていきたい。
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