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語られない戦争の実態 ~現地人を一人も死なせなかった「ペリリュー島の戦い」~

パラオ諸島の「ロックアイランド」

大東亜戦争の「ペリリュー島の戦い」に見る、日本軍の誇るべき戦い

第二次大戦の「ペリュリー島の戦い」を私が始めて知った時は、感動し涙を流した。日本の先人達を心から尊敬し誇りに思った。私も含め「日本は第二次大戦で悪いことをした」という洗脳を受けてきた。しかし、この戦いを見ただけでもそれが嘘と簡単にわかる。語られない「ペリュリー島の戦い」をまとめたので、是非見て欲しい。

1.語られないパラオ、「ペリリュー島」での大東亜戦争(第二次大戦)の実態

『第二次世界大戦(大東亜戦争)は日本が侵略戦争の末にアメリカやイギリスに負けた』というまったく事実と異なる嘘は、私にも深くすり込まれていた。しかし、日本の先人達は「侵略」などまったくしていないし、望んで戦争したわけでもない。その「嘘」を明確に見せてくれる一つの証拠が、パラオでの日本とアメリカによるペリリュー島の戦いである。

パラオ諸島の「ロックアイランド」
パラオ諸島の「ロックアイランド」

このペリリュー島の戦いを見ていきたい。私はこれを知ったとき、涙が出た。先人に誇りを思った。
大東亜戦争も戦況がどんどん悪くなっていた昭和19年(1944年)のペリリュー島の戦いを簡単にまとめると以下といえる。

・ 日本兵1万人以上が全滅する大激戦であった。
・ アメリカは最強と言われた「第一海兵師団」で約4万人の大戦力だった。
・ アメリカ軍は2,3日で終わると思っていた戦いは、73日にも及んだ。
・ 日本軍はほぼ全滅、アメリカ軍も当時で「史上最悪」とまで言われた。
・ ペリリュー島の島民は一人も死者を出さなかった。

あのきれいな南の海で一体何があったのか、見ていきたい。

2.ペリリュー島とパラオの歴史

(1) 親日国パラオ

パラオという国は、今も大変な親日国で知られる。今から5年前の平成17年(2015年)には、現在の上皇陛下ご夫妻が、慰霊も含めて訪問された。現地では熱烈な歓迎を受けた。

パラオ諸島の位置
パラオ諸島の位置
日本国旗とパラオ国旗
日本国旗とパラオ国旗

パラオはフィリピンの西側にあたり、日本のちょうど真下(真南)の位置にある島である。パラオの国旗は、日本の国旗(「日の丸」)とよく似ている。政府は正式には言わないが、日本の国旗に由来があるとも言われる。実は、パラオが正式に独立したのは、冷戦が終わった1990年代である。にも関わらず、なぜ日本の国旗に由来がある、とまで言われる国旗にしたのだろうか。

そして、なぜこんな遠くの島で日本軍とアメリカ軍との戦いが起こったのか。「第二次世界大戦の日本軍がここを占領したからここで戦いが起こった」、と言うかも知れない。しかし、それは正確ではない。

パラオは大東亜戦争より20年以上前の1922年(大正11年)に当時の国際連盟より「委任統治」の形を取って、日本が統治していた。これを「日本の植民地化」という言い方をしている人や本があるが、それはまず言葉として間違いである。あくまで「委任統治」であり、そして実態も、その言葉の印象とは全く違う物だった

(2) ヨーロッパ列強の「虐殺」に苦しめられていたパラオの歴史

パラオの歴史は、常に「征服」の歴史だった。16世紀にはポルトガルが占領し、スペイン・UK(イギリス)なども入り、まさに「征服」された。富はすべて列強が持って行き、住民は人間扱いされなかった。賃金なしで働かされ、暴動があれば見せしめに殺されて木につるされた。
天然痘などの影響も有り、なんとパラオの人口の90%が減少したと言われる。

そして1899年に国力衰退著しいスペインが、当時の新興国のドイツにパラオを含む区域を売却した。これにより「ドイツ領」となる。
そしてドイツ領になっても、生活は良くならなかった。それどころか、全く教育も為されずインフラも整備されず、ひどい状態でまさに文字通りの「植民地」の状態だった。

(3) パラオを救った「大日本帝国」

それが大きく変わったのガ、日本が入ってからである。なぜ日本がパラオに関係することになったかと言えば、第一次世界大戦である。

第一次世界大戦(1914年~1917年)というと、日本人は「日本は関係ない」と思っている人が多い。しかし、日本は「日英同盟」もあって歴然たる「戦争参加国」であった。そして当時から、列強の「植民地支配」に対して異を唱えていた。
日露戦争(1904年:明治34年)が終わったばかりで、日本には国の余力がなく日本自身もまだまだ「植民地化」の危険があった。「戦わなければやられる」状態の世界で、明治維新をへて日露戦争をなんとか勝利した日本は、ヨーロッパで始まった大戦に本来は参加するつもりはなかった。しかし、日英同盟があることや、当時の状況から参加することが国益に資する、として参加に踏み切る。日英同盟があったことからUK(イギリス)側の連合国の一員として、「同盟側」のドイツに宣戦布告をし、アジアにおけるドイツの植民地をいくつも奪った。その一つがパラオである。

第一次大戦で日本統治となった地域
第一次大戦で日本統治となった地域

第一次大戦の詳細はここでは触れないが、戦勝国の一角をなす大日本帝国はその後に出来た「国際連盟」の常任理事国として入った。そして、パラオなどの地を「委任統治」の形で引受けることになった。

当初パラオの人々は、日本の統治におびえていたという。しかし、日本の統治はそれまでの白人がおこなってきた物とまったくことなるものだった。日本はパラオに学校を造り、病院、道路、水道、電気などさまざまなインフラ整備を行った。医療・教育の支援も行い、まさに現地と共に国を整備していった。

一方、パラオ本島から少し離れたペリュリー島に日本は軍を置いたが、そこでも住民を苦しめることなく、住民と共に暮らした。最初警戒していたパラオの住民も、日本人を見て警戒心を解き、一緒に歌も歌っていたという記録もある

まさに日本の統治は、台湾や朝鮮のそれと同じく、「植民地」とはかけ離れた「統治」だった。その証拠が、今に至るまでパラオは親日国であることと、国旗である、といえる。そして「ペリュリー島の戦い」の真実が、更にそれを裏付ける。

3.ペリュリー島の戦いの背景

そんな国際状況がある中で、あの大東亜戦争が1941年(昭和16年)の12月8日の真珠湾攻撃により始まる。しかし、列強からのアジアの開放を進めていた日本は、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦などを経て、敗色濃厚となって行く。

大東案戦争の主な出来事

ペリュリー島の戦い」は、大日本帝国がその版図をみるみる小さくしていった最中での戦争だった。「ペリュリー島の戦い」は終戦間近の1944年(昭和19年)の9月から11月に行われた戦いで、アメリカの上陸に対して、防衛ラインを死守しようとする大日本帝国軍との戦いだった。

中川州男(くにお)陸軍大佐
中川州男(くにお)陸軍大佐

大東亜戦争全体を見た時に、どう考えても敗色濃厚の「防衛戦」だった。実際にそこの守備隊長となった中川州男(くにお)陸軍大佐は、その任命を受けて訪ねられた夫人に、永劫演習えいごうえんしゅうさ」(帰還を望めない戦場)、と答えた。どう考えても勝ち目はなかったが、ここで少しでも敵であるアメリカを踏みとどまらせることは、その後の日本の利益になるという悲壮の戦いだった。

4.「米軍最強」を相手に堂々と戦った大日本帝国陸軍

ペリリュー島の戦いは、日本軍が1万人、アメリカ軍は4万8千人で、明らかな兵力差がある中で始まる。アメリカは「最強」と言われる「第一海兵師団」を含む精鋭だった。

ペリリュー島の戦いの米軍
ペリリュー島の戦いの米軍(Wikipediaより)

アメリカ軍の攻撃は、大規模な艦砲射撃と空襲から始まる。「島の形が変わる」とまで言われた猛攻撃であった。日本軍は地下陣地などを準備して、アメリカの圧倒的な戦力差に対応しようとしていた。

ゲリラ戦を駆使して対抗した日本軍だったが、結果としては全滅し敗北した。

しかし、アメリカ軍は余裕であったわけではない。予想を遙かに上回る日本軍の戦いに驚愕し、恐怖した。当初アメリカ軍は「2~3日で終わる」とまで考えていた戦いが苛烈を極めて、3ヶ月もかかったのである。犠牲者も予想を遙かに上回る規模となった。

アメリカ軍はこの後の「硫黄島の戦い」も含めて、日本軍の強さは大きく刻まれた。こうした先人達の戦いは決して無駄にはなっていない。その後の日本占領下でも、そうした日本人の「強さ」は大きく刻まれて、アメリカの政策に影響を与えた。

5.なぜ島民は一人も死ななかったのか?

ペリリュー島の歩兵隊
ペリリュー島の歩兵隊

それほどの戦いがあった中、ペリリュー島民の死者は一人もいなかった。
それは、日本軍を指揮した中川州男(くにお)大佐が、島民を全員避難させたためである。

ペリリュー島の島民は899名いた。実は白人支配で散々な目にあっていた島民は「村人会議」を開いて、「日本と共に戦う」と決めていた
しかし、それを聞いた中川大佐は、普段は温厚であったがこのときに大声を上げて一喝(いっかつ)したという。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

島民は戸惑ったと言われる。しかし、中川大佐はその時にあえて島民に厳しく言ったのである。そして島民全員をペリリュー島から避難させることとした。島民全員が船にとって避難する時に、日本兵は島民と一緒に歌った歌を歌い見送ったという。そこには中川大佐も含まれていた。

その結果、島民は一人も亡くなることなく戦争が終わった。島に戻った島民は、全滅した日本軍の戦闘跡をみて、深く感謝したという

6.戦後のペリリュート島と日本軍

戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していた。

戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきた時に、彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬した。

ペリリュー島を含むパラオは、戦後はアメリカの「信託領地」となりアメリカの傘下に入る。しかしアメリカはパラオの統治に熱心ではなく、パラオは独立を目指す。パラオが正式にアメリカから独立したのは、平成6年(1994年)までかかった。
そして、そのペリリュー島には、先の戦いのアメリカ軍の指揮をした「米太平洋艦隊司令長官 ニミッツ」氏の言葉は刻まれた石碑がある

諸国から訪れる旅人たちよ
この島を護るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
そして玉砕したかを伝えられよ

米太平洋艦隊司令長官 ニミッツ

ペリリュー島の石碑
ペリリュー島の石碑

戦いは敗れたが、島民に愛され、そして戦った相手にも尊敬された日本軍の存在は今も残されている。

7.語られない先人を今こそ見直し、感謝の念を!

「ペリリュー島の戦い」を知る人は少ないかも知れない。しかし、そこには「大東亜戦争」の一面があり、日本人として知るべき事実と思う。

日本軍はただ負けた訳ではないことが、この戦いと島民のエピソードを見て分かると思う。戦って尚、島民に愛され、戦ったアメリカ軍にも尊敬された。今も尚、パラオやアジア諸国がいわゆる「親日国」なのは、当時の我々の先人の礎があってこそと思う。そして、戦った米軍の言葉を見れば、いかに日本軍が勇敢に戦ったが見える。

今に生きる我々としては、こうした先人達の「遺産」をしっかり受け止め、日本人として誇りを持って生きていたいと思う。

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