憲法から日本を考える ~聖徳太子からの「憲法」の歴史と現行憲法~

聖徳太子

聖徳太子からの日本の「憲法」の歴史を見て、現行憲法を考える

憲法について、歴史を踏まえてまとめてみた。
私は憲法の議論は苦手で、好きではない。やたらに細かいし、解釈を巡って言葉遊びをしているとしか思えない。また、浅い知識の私にはついていけない。そんなに学んだことはないが、読めば読むほど、聞けば聞くほどわからなくなる。
とはいえ、特に政治・経済を見ると、憲法の重要性を痛感する。憲法が弊害になっていることもあると認識している。

憲法改正の議論が持ち上がっている今、日本における「憲法」の歴史を振り返りつつ、現在の憲法を考えてみた。日本人が知るべき、かつ、誇るべき日本の「憲法」の歴史を見た上で、憲法を考えた憲法学者の議論とは違う形の「憲法」の考察に、是非お付き合いいただきたい。

1.憲法とは

(1) 憲法と憲法典(けんぽうてん)

憲法典(けんぽうてん)という言葉をご存じだろうか。私も、学校で学んだ物ではなく、近代史や憲法の成り立ちなどを学ぶ過程で目にするようになって、始めて知った言葉である。
語弊を恐れずに単純に解説すれば、

「憲法」とは、実質的な意味での国体・国の形(constitution)であり、「憲法典」はそれを形式的に文書にまとめたもの(constitutional Low)

と言える。
これも深く調べると、いろいろな議論が出てきて、正直余計に意味がわからなくなってくる。「憲法学者」とはかくも難しく言葉を使うか、と本当に思う。しかし、原則的な理解は上記でいいと思われる。細かいところまで理解したい人は、調べてみてほしい。いかに難解で種々の議論があるかわかると思う。

しかし、日本の歴史や憲法のでき方を見ていくと、この「憲法」と「憲法典」を分けて考えることの重要性に気づく。
現在の「日本国憲法」が、「憲法」なのか「憲法典」なのか、明確な定義はないようである。また、一律に言えるものでもないらしい。実はここが、「日本国憲法」をどのように見るか、という本質にも関わってくる考え方だと思う。

(2) constitutionと「憲法」の概念

「constitution」という英語に「憲法」と充てたのは歴史が浅く、明治維新の真っ最中の1873年である。
「constitution」という言葉はラテン語の「constitutus」に由来しその意味は「構成する」、「組織する」などの意味である。よって「constitution」は本来「構成・組織・国体」といった意味である。
英語では憲法典を「constitutional Low」として、憲法(constitution)と区別して考えている。

一方で、日本において「憲法」という言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」にあるとおり、古くからあった。しかしその頃の「憲法」とは、今のイメージでいう「法律」的な意味合いが強い物ではなかった。規範的な物を示すものであったり、「きまり」といった意味合いで語られるようである。

(3) イギリスでの「憲法」と「憲法典」

イギリスは、「憲法がない」と言われる。これは「憲法典(成文憲法)」のことを指し、日本では「憲法」と「憲法典」とが一緒にされるため、このような議論となる。wikipediaの写しだが、イギリス憲法の説明として、下記を見てほしい。

イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、英: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)において、議会決議や法律、裁判所の判例、国際条約、慣習等のうち、国家の性格を規定するものの集合体である。単一の憲法典としては成典化されていないため、不文憲法または不成典憲法であるといわれるが、それはあくまでも憲法典としての単一の成典を持たないという意味。

すなわち「憲法」を具体的な成文法たる「憲法典(consitutional Low)」としては持っていない。あえてそこを曖昧にすることで、「憲法」という国の規範を広い概念として定義している。そこがヨーロッパの憲法の先進国たるイギリスの工夫である。
ただし、種々の法令がそれを構成し、全体で「憲法典」であるという考え方らしく「軟性憲法」という難しい言葉が充てられる体型だそうである。

2.マグナカルタに見る「憲法」の始まり

マグナカルタという言葉は、小学校か中学校か記憶は確かではないが、聞いたことは覚えている。「世界で初めての憲法」といった印象くらいしか残っていないが、何か先進的な響きだけは記憶していた。

マグナカルタ(Magna Carta)

1215年、イギリス・プランタジネット朝の国王ジョンに対し、封建諸侯と都市代表が共同して認めさせたもので、王権を制限し、諸侯の既得権と、都市の自由を規定し、イギリス憲法を構成する重要な憲章とされている。

ジョン王の署名

ジョン王の署名

マグナカルタは、13世紀初頭に、世界で始めて国王に制限をかけた「憲章(極めて重要な決まり事)」として、歴史上非常に重要な意味を持つものである。それまでのヨーロッパでは、国王の権利は絶対で、「国王は法に縛られない別格の存在」とされてきた。これを大きく変えたのが、「マグナカルタ」である。
これこそが「立憲主義」と言われる原型であり、「憲法が最上位にある」という考え方の根幹である。

ジョン王

ジョン王

なお、このジョン王はイギリスの王国上、悪名高き人物であり、そのためマグナカルタが必要であった。41人のイギリス歴代国王のなかで、ジョン王は常に「ワースト1位」の存在である。ジョン王が亡くなった直後に聖職者が記した年代記に「無能で、嘘つきで、戦に弱く、卑劣で、かんしゃく持ち」と書かれていて、イギリス国王で、ジョンを名乗る国王は、現在含め二度と現れなかった。

憲法が「権力者の権限を縛るもの」という発想は、このような歴史を見ると理解できる。

3.日本の「憲法」の歴史

日本での「憲法」の歴史を見ていく。といっても、明治や戦後の憲法だけのことではない。すなわち、「国の形」としてのルールの日本の歴史を見ていく。先の定義で言えば、「憲法典」に着目するのではなく、国体としての「憲法」の歴史を見てみたい。

(1) 聖徳太子の17条憲法(604年)

聖徳太子

聖徳太子

最も古く「憲法」と言われるものが日本史上で出てきたのが、聖徳太子「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」である。聖徳太子の偉業は大きく、いくつもあるが、その偉業の柱の一つが17条憲法である。日本の国の大きな起点といえるそれらについては、別途のブログ記事でまとめたい。ここでは聖徳太子と時代背景を簡単に触れるのと、17条憲法に絞って記述する。

聖徳太子の時代は、飛鳥時代で、日本の国を形作る上で重要な頃であった。支那の大陸では「隋(ずい)」という強大国ができ、そのせめぎ合いも激しかった。遣隋使を送っていたが、隋の皇帝「煬帝(ようだい)」に対して送った国書により、煬帝を激怒させている。

日出(いず)る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや。

煬帝がこれを見て激怒したのは「日出ずる国より」とあったからではない。国書に「天子」という言葉が日本に対して使われていたことにある。これは、皇帝と同じ位置にあることを表現していて、太子としては、日本の位置づけを高めることを狙っていた。当時、隋は朝鮮の高句麗と戦っていたため、隋は戦争をできる状態に無いことを知った上での国書である。それほどまでに、日本という国の確立に腐心していた。

十七条憲法

十七条憲法

こうした「国体」を強く意識した中で作られたのが「十七条憲法」である。添付の表はすべての条文の、抜粋とその部分の現代語訳である。これが6世紀の、すなわち1500年以上も前に定められたものかと、感嘆する。今でも十分通じる内容である。是非、内容を見てほしい。

もともと「十七条憲法」は、役人が守るべきことをまとめたものである。日本最古の「成文法」と言われる。読んでみると、内容には深い含蓄(がんちく)を感じる。

先の添付の全条文はあくまで条文の文言を抜粋したものなので全容ではない。一つ一つの条文の全文を見ると、更に深い内容に驚く。また、意味が違う形で知られているものも多い。最も有名な第1条の和を以て貴(とうと)しとなすを掘り下げてみてみたい。

第一条「和を以て貴しとなす」の全文
【全文の読み下し文】
一にいわく、和をってとうとしとなしさからうこと無きをむねとせよ。人みなたむらあり、またさとれるもの少なし。ここをもって、あるいは君父くんぷしたがわず、また隣里りんりたがう。しかれども、上和かみやわら下睦しもむつびて、事をあげつらうにかなうときは、すなわち事理じりおのずから通ず。何事か成らざらん。
【現代語訳】
和というものを何よりも大切にし、いさかいを起こさぬように心がけよ。人は仲間を集め群れをつくりたがり、人格者は少ない。だから君主や父親にしたがわなかったり、近隣の人ともうまくいかない。しかし上の者が和やかで下の者も素直ならば、議論で対立することがあっても、おのずから道理にかない調和する。そんな世の中になると何事も成就するものだ。

上記の通り、太子のいう「和を以て貴(とうと)しとなす」とは、単に「争いごと無く、仲良くしよう」というものではない。「和」とは「調和」のことであり、たとえ対立があっても上の者が「和」を重んじ下の者がそれに倣えば「調和」に至る、と説いているのである。更に、そうした「調和」ができる世の中であれば何でも成就する、と言っている。決して、「みんなで仲良くしましょう」などという文ではない。「和(調和)」に至るように、それを特に上の者は目指すことを説いているのである。

まさに今の時代にも当てはまると思う。単に「仲良く」と説いているわけでは無く、いかに「調和」に至る努力が重要か、そしてその努力ができれば世の中は何事も成就する、という力強い条文である。また、それが第一条に来ていることに、聖徳太子の強い意志が現れていると思う。
余談だが、陰陽道で、9が陽、8が陰、の最高数字のため、それらを足した17が最強の数字とされる。これが「17条憲法」の理由である。以後、大日本帝国憲法までこの17という数字は必ず意識されて作られている。

古い動画だが、この第一条を解説した動画を添付する。非常に興味深く勉強になる解説なので、是非ご覧いただきたい。

(2) 鎌倉幕府の御成敗式目(1232年)

時代は大分下り、聖徳太子から600年後の鎌倉幕府の時代を見る。

北条泰時

北条泰時

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、1232年、鎌倉幕府が作られてから40年近く経って作られたものである。北条家が執権となってから、北条泰時(やすとき)により定められたものである。鎌倉幕府にとって初めての基本法であり、武士に対するものであった。しかし影響は武士にとどまらず、庶民にも影響を与えた。また、鎌倉時代以降の武家に強い影響を与えたものである。

全部で51条ある。これは17の倍数を意識して作られたものであり、17は聖徳太子の「17条憲法」から来ている。
そうした伝統を生かした上で、わかりやすい平易な文で書かれたことが、その特徴としてあげられる。全国各地の武士層に広く普及させるために、わかりやすいものにしている。これは、先の「律令」が難しすぎたため、誰にでもわかるように工夫したものである。

内容はかなり具体的であった。いくつか列挙する。

御成敗式目の内容
【第一条】「神社を修理して祭りを大切にすること」
内容として「神は敬うことによって霊験があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。」とある。
【第十条】「殺害や刃傷(じんじょう)などの罪科のこと」
内容として「言い争いや酔った勢いでの喧嘩(であっても相手を殺してしまったら殺人罪であり、犯罪者は死刑か流罪とし財産を没収する。」とある。
【第二十条】「妻や妾(めかけ)に相続した土地の離別後のあつかいについて」
【第二十一条】「離縁(りえん)した先妻の子供(長兄)に与える財産のことについて」
【第二十二条】「女人の養子のこと」

武士の心のあり方を第一条で説いている。その後は「刑法」「家族法」「裁判」についてなどが書かれていて、武士のあり方を規定しているのである。
上記にもあげたが、御成敗式目の大きな特徴として「女性に相続権を与える」といった画期的なものであったこともあげられる。上記の通り、女性に関する規定もかなりある。女性に対する権利の議論が盛んにされたことがうかがえる。

(3) 江戸時代の武家諸法度(1603年~)

時代は更に下り、鎌倉幕府から400年後の江戸時代を見る。

徳川家康

徳川家康

武家諸法度(ぶけしょはっと)は江戸時代に幕府が武士に対して出すものであった。2代将軍の徳川秀忠が最初に発布し(当時は家康も元気なため、実質的には家康)、その後8代将軍の徳川吉宗まで将軍が変わるごとに修正が加わり発布された。吉宗以降は変更されていない。

その内容は、参勤交代のことが書かれるなど、幕府の政治に関することも多かったが、やはり武士のあり方についての議論が必ず入っている。下記に第2代将軍徳川秀忠が元和元年(1615年)出した「元和(げんな)令」の第一条と第二条を示す。

武家諸法度(元和令)
一、文武弓馬の道、専ら相嗜む(たしなむ)べき事。
(現代語訳例)諸大名は,学問と武術をみがくことにつとめなければならない。
一、群飲佚游(ぐんいんつゆう)を制すべき事。
(現代語訳例)大勢で酒を飲んだり遊んだりしてはいけない。

ここでも大名、すなわち支配層のあり方をまず説いている。また、その次の条文が「大勢で酒を飲むな」とあるところが、当時の状況を示していて面白い。

(4) 明治維新の五箇条の御誓文(1868年)

幕末明治の「憲法」には2種類あると思う。一つは当然「大日本帝国憲法」だが、もう一つが「五箇条の御誓文」である。明治政府が発足し間もない頃に、憲法に先立つこと22年前に、出された。それを見てみる。

明治天皇

明治天皇

五箇条の御誓文は1868年に、「明治天皇が天地神明に誓う」という形で発布されたものである。「御誓文」とあるのは、明治天皇が神仏に対して誓ったものであり、発足したばかりの明治政府にとっての宣言文である。

1868年は「一回やろうや」で覚えるそうだが、まさにその年は、慶応4年であり明治元年でもある明治政府がスタートした年である。徳川慶喜の大政奉還はその前年になされ、徳川幕府後の体制は決しつつあったが、これから国の体制を作り欧米列強に対抗すべく有色人種初の挑戦が始まる、まさに激動の幕開けとも言える年である。日本最大の内戦である戊辰戦争は、この後である。
明治天皇や明治政府の元勲にとって、明治政府が成るまでの激動はあくまでプロセスであって、これからが本番であることが念頭にある。

 

由利公正(ゆりきみまさ)

由利公正(ゆりきみまさ)

その中で、天皇陛下の神に対する「御誓文」という形で発布したのが、五箇条の御誓文である。作成は福井藩士の由利公正(ゆりきみまさ)、校正は維新3傑の一人、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)と言われる。

五箇条の御誓文

五箇条の御誓文

添付画像は全文と現代語訳例である。内容を見てみると、当時の明治天皇と明治政府の悲痛なまでの宣言が見て取れる。
最も有名な第一の「万機公論により決すべし」は、まさに聖徳太子の17条憲法の「和(調和)をもって貴しとすべし」と全く同義である。こうした日本の過去の歴史を踏まえて作られている。

これから来る欧米列強との戦いがどうなるかわからない中、急ピッチでの国の組成のためにあえて「文」にした宣言文である。まさに今でも当てはまる内容である。今の政治家・官僚に是非読んでほしい物と強く思う。

個人的には、これこそ日本の国のあり方を規定するという意味での「憲法」としてふさわしいとも言える内容ではないかと思う。憲法を「不磨の大典」のようにして意味の無い議論をしている今を見ていると、これくらいシンプルにして、あとは法律で決めればいいと思うのは乱暴だろうか。
ただ、第5条の「天皇」のところで、「軍国主義が」と噛みつく人がいるだろうが・・・。

(5) 明治政府の大日本帝国憲法(1890年)とその下での日本

大日本帝国憲法は明治政府発足の1868年から22年後の1890年に施行されている。それ自体については、詳細を述べ出すときりがないので、ここではその構造についてのみ述べる。その頃の時代背景等は「5.大日本帝国憲法と伊藤博文」にて記述する。

大日本帝国憲法の構成

大日本帝国憲法の構成

憲法の構造は添付画像の通りである。「天皇」が最初にあり、これがまさに特徴である。「国」としての憲法で考えたとき、統一した元首としての天皇が位置づけられ、そこが中心となって憲法全体が構成されている。
その第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」であり、天皇が中心の政府であることがうたわれている。

とはいえ、大日本帝国憲法下で天皇が議会を超えた権限を振るったことは無い。確かに「天皇大権」と言われる種々の超越的権限は認められていた。しかし、運用上でそれが使われることは無く、大日本帝国憲法下であっても天皇はすでに「象徴」としての働きしかしていなかった(2度の例外はあるが)。決して、天皇独裁などは一切無かったと断言できる。

むしろ大日本帝国憲法によりアジア初の議会である帝国議会ができたが、その議会の権限の強さにヨーロッパの学者や政治家が「こんなに開明的な憲法でいいのか」と心配したそうである。まだまだ帝国主義の時代で、ヨーロッパも議会と国王との権限に苦労していた。そんな中で大日本帝国憲法は当時で考えれば画期的な憲法であり、かなり議会に権限を持たせていた。特に予算に関して、否決は出来ないにせよ修正等は出来る権限であった。

議会と内閣の対立は激しく起こり、内閣はコロコロ変わった。当時の歴代内閣の変遷を見てもらえればすぐにわかる。無責任な政治となり、ひどい論争が繰り広げられていったのが、明治の元勲がいなくなってきた大正・昭和初期である。そして国民が政治に絶望し、世界恐慌などで経済が悪くなるにつれ、軍に期待を寄せていった。昭和7年(1932年)の「5・15事件」で時の首相犬養毅がテロにより殺されても、国民は軍に同情的であった。しかしそうなっていったのは、種々の要因があるが、適切な経済政策を打たなかった事を含め政治の責任であり、決して憲法の問題ではなかった。

大日本帝国憲法というと、どうしても暗い印象があるが、その内容は決して恥ずべきものではなかった。確かに欠陥といえる部分もあったが、むしろ当時からしても開明的であり、有色人種初の議会ということで、世界からも注目されていた。
しかし、その結果得られた民主主義という制度が、国を戦争へと進めてしまった。憲法そのものというより運用に問題があったと言える。ただし、そこには共産主義という名の諜報活動があったが・・・。実は、今の状況と非常によく似た状況にあったのである。それらについては、近代史をひもとくときに、別途しっかり記述したい。

(6) 第二次世界大戦後の日本国憲法(1947年)

日本国憲法については、まずその特徴として「敗戦後」に作られたもの、ということになるだろう。今までの日本の「憲法」と全く違うのは、その作成において、アメリカを中心としたGHQという組織が強力に強制力を持って介入してきたことである。

ここでは作成における過程は割愛するが、特にアメリカを中心とした外国勢力の強力な強制力の下で異様なスピードで「作らされた」のが、「日本国憲法」である。その構造を示したのが添付の表である。

日本国憲法の構成

日本国憲法の構成

表の通り、ここでも「天皇」が最初に来る。ただし、第一条の条文は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあり、天皇は「象徴」と位置づけたところに、大日本帝国憲法との大きな違いがある。

また、最も特徴的なものが、第2章の「9条」であろう。これについては当時から様々な議論と対立を発生させている。憲法を強制した当時のアメリカの新聞にすら「独立国なのに交戦権を否定するのはあり得ない」と言われたという。現在において、最も致命的な部分と言える。

4.古事記の「天岩戸(あまのいわと)」と17条憲法

少し話はそれるが、古事記にある「天岩戸(あまのいわと)」の話に触れたい。天岩戸の話は有名な話だが、単なる物語ではないようである。当時の時代背景や、その出来方を見ていくと、非常に重要なメッセージが込められている物語であることがわかる。

非常に簡単にではあるが、天岩戸の「岩隠れ」の話を紹介したい。

天照大神(あまてらすおおかみ)の岩戸隠れ

天照大神の岩戸隠れ

天照大神の岩戸隠れ

神様の国で、弟の須佐之男命すさのおのみことの悪行にたまりかねた姉の天照大神あまてらすおおみかみ(以下「アマテラス」)は、岩に入って閉じこもってしまった。アマテラスは太陽の神様のため、それにより神様の国は真っ暗となり、神々は困ってしまった。

そこで皆で集まり協議した。結果、知恵者の思金神おもいのかねが中心となり、それぞれの役割を決めた。女神である天宇受売命あめのうずめのみことに裸踊りをさせて大騒ぎをして、アマテラスがそれに惹かれて岩戸を開けたら、天児屋命あめのこやねのみこと布刀玉命ふとだまのみことが鏡(八咫鏡やたのかがみ)を用いて誘い出し、力持ちの天手力男神あまのたじからおがアマテラスを出して岩を閉じる、というもので、見事その通りになり、アマテラスは以後岩戸に閉じこることはなくなった。

実際の話はもっと詳細であり、生々しくて面白い。興味のある人は是非見てもらいたい。
ここで言いたいのは、古事記がこれにより表現したかったことは、これが日本最古の「国会」であるということである。話し合いによって物事を決めて、役割分担をしっかり担うことでことが事が成就する、ということを物語で表現しているという。

まさに、聖徳太子の「十七条憲法」の第一条の「和を以て貴しとなす」と意味が一致する。
違う時代に作られたものが、ここまで一致することに本当に驚愕する。古事記が変遷されたのは、712年で、聖徳太子の時代(574~630年)から100年近く後である。変遷したのも、聖徳太子とは関係の無い太安万侶(おおのやすまろ)である。

古事記は、上巻かみつまき中巻なかつまき下巻しもつまきと3編に分けられ、上巻が「神話」、中巻が「伝説」、下巻が「歴史」ときちんと整理されて変遷されている。上巻は神々の話であり、中巻は第1代の神武じんむ天皇から第15代の応神おうじん天皇まで、下巻は第16代の仁徳にんとく天皇から、聖徳太子が摂政として補佐した初の女性天皇の第33代推古すいこ天皇まで、と明確に分けられている。
当時の神話などを集めて変遷されていて、知れば知るほど体系立って練られて変遷されている事に驚く。また、神々が躍動的に描かれ、浮気や裏切りや嫉妬もありの、非常に人間味あふれたエピソードの集まりである。
宮崎県 天岩戸神社

宮崎県 天岩戸神社

古事記・日本書紀というと、古い文献くらいの印象しかなかったが、日本史を見ていくと節々で出てくる。江戸時代にも明治維新にも、絶大な影響を与えている。先人達が日本を振り返るときに、必ず向かい合う重要な文献であることがわかってきた。単なる物語ではなく、日本人として語り継がれるべきものとして変遷されたものなのである。しかし、戦後これが、GHQにより一切禁止されてきたのである。

また、遙か何千年の昔の話のなのだが、そこには事実に基づいていると思われるものが多々ある。謎と魅力に満ちた歴史書である。江戸時代に本居宣長が、人生をかけてその解読に夢中になったのもうなずける。

5.大日本帝国憲法と伊藤博文

(1) 時代背景

大日本帝国憲法が出来た頃の世界情勢について触れておきたい。
この頃はまさに明治維新の頃である。日本は大急ぎで近代化を進めた。先に産業革命を経ていたヨーロッパ列強、そして生まれて間もないが力をつけつつあるアメリカに追いつくためである。明治政府は、隣の清やアジア諸国がどのような状況になっていたか、良く理解していた。

19世紀後半の各国の動き

19世紀後半の各国の動き

かといって、日本だけが変革の中にいたわけではなかった。最強国家のイギリスとその対抗馬のロシア帝国という2大巨頭がいたが、他のヨーロッパ諸国もまた変革の中にいた。ドイツはビスマルクにより帝国が出来たばかりであり、イタリアも同様である。アメリカは建国間もない頃であり、内戦というより2ヶ国に分かれた戦争といった方がいい「南北戦争」がようやく終わった頃である。フランスはまだフランス革命の爪痕が大きく、パリコミューンという自治政府による粛正政治が行われていて混乱の最中であった。

伊藤博文

伊藤博文

そんな中で、日本は不平等条約を払拭するには欧米に認めてもらえないといけなく、そのためには憲法が必要という結論に至った。しかし、欧米の言う「憲法」がどのようなものか、わかる人がいなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、明治維新の英雄の一人で英語が堪能な、伊藤博文だったのである。

(2) 伊藤博文の苦闘

岩倉使節団

岩倉使節団

伊藤博文は憲法の重要性について認識していた。岩倉使節団(明治4年~明治6年:1871~1873年)にも参加していて、欧米の力は十分理解していた。

明治政府が成り、伊藤博文の先輩達は去って行く。維新3傑の、西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通は命を落とし、それでも明治政府は進んでいく。その中で、明治天皇の命により、政府代表として明治15年(1882年)から1年かけてヨーロッパにて憲法の勉強をしている。

 

 

シュタインとグナイスト

シュタインとグナイスト

この際に大きく影響を受けたのが、ドイツの法学者ルドルフ・フォン・グナイストとローレンツ・フォン・シュタインである。有名な逸話で、彼らに憲法について聞いたところ、
「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」
と言われ、伊藤博文は徹底的に日本の歴史を振り返っている。古事記・日本書紀はもちろん、万葉集や他の文献も徹底的に研究した。大日本帝国憲法は明治22年(1890年)に施行されている。実に10年以上の歳月を経て、作られたものである。

(3) もう一人のキーマン 井上毅(いのうえこわし)

井上毅

井上毅

また、大日本帝国憲法の作成において井上毅(いのうえこわし)に触れないわけにはいかない。官僚中の官僚とも評価される井上毅は、伊藤博文の命により大日本帝国憲法を実質的に作成した中心人物である。古事記・日本書紀はもちろん万葉集などの研究も進め、大日本帝国憲法作成をしている。憲法作成に心血を注ぎ、伊藤と意見が違っても厳しい主張をしながら、日本の近代化のためと努力を惜しまなかった。

文字通り秀才の人で、伊藤の懐刀のような存在であった。教育勅語もこの人が起草したものである。最終的には伊藤と意見が合わなかったようだが、まさに国士と呼べる人である。憲法作成に心血を注いだ後、憲法発布の5年後の明治28年(1895年)に亡くなる。

6.現憲法(日本国憲法)の欠陥

現憲法について、その時代背景については、近代史をまとめる際に行いたい。
それほど非常に複雑に世界の力関係が影響している。ここでは、2点だけ指摘したい。

・その制作過程はあまりに稚拙で急ぎすぎて作られていること
・大前提として、占領軍のGHQ(マッカーサー、ホイットニー、ケーディスなどが主導)が細部に至るまでほぼ全部主導して作ったものであるということ

である。当時の国際情勢等を考えて、GHQのやったことは理解する部分もあるが、いくら戦勝国でも他国の憲法作成に強制力を用いるなどとは、当時の国際法(「占領国の法律を尊重する事」と定めた国際法・ハーグ条約)から見ても明確に違反であり、ポツダム宣言にもない条約違反であることは明白である。それは指摘しておきたい。
かといえ、それを否定できる状況でもなかったのも事実である。また、確かに戦後70年、それに基づいて国を作ってきたのが今の日本であるから、その憲法全部を否定するのも難しいと思う。

日本国憲法の構成

日本国憲法の構成

しかし、重大な欠陥だけは指摘しておきたい。
独立国として、国家としての「武力」を否定する憲法9条はあり得ない。
憲法とはそもそも国を守り発展させるためのものである。その憲法が自ら国を危うくするのなら、憲法がおかしいと堂々と言うべきである。実害は十分に出ている。「武力を否定する」と国家が宣言してしまった状態により、どれだけの被害者が出ているか、しっかり日本人は認識すべきである。旧社会党、今の立憲民主党・共産党やマスコミはひた隠しにするが、事実日本人の生活が破壊されているのである。

7.今後のあるべき方向性

(1) 日本における「憲法」とは「権力者を縛るもの」か?

「憲法」は国家権力を縛るためにある、という論がある。特に立憲民主党や、共産党がよく言うセリフである。しかしこうして2000年近くの日本の歴史を見ると、それは日本でいう「憲法」の感覚に合うのか?という疑問が沸く。
 イギリスに限った話では無いが、王室が率先して他国と戦争し略奪・虐殺をしていたのとは違い、日本の歴史上で天皇陛下がそのような悪行を行ったという記録は、少なくとも私は知らない。むしろ天皇陛下がその規範を示すとして位置づけられ、それをいただく形で国がまとまり、為政者が自制しているのである。そしてその統治を「知らす」かたちで、古事記・日本書紀などの文書が機能し、時代の為政者達がその影響を受けている。

もちろん憲法の要素として、規範的な要素だけではなく、権力者を縛る規定もあり、どちらか一方だけということは無い。ただ日本は規範的要素の側面が大きいと思う。2000年近い日本の歴史を見ていくと、常に「権力者はこうあるべき」として規定し、しかも権力者達はそれに向かって努力するという、非常に誠実な歴史があるように思う。

そうした歴史を知った上で、憲法典としての要素が強い、現在の憲法を考えることが重要と思う。

(2) 現在の憲法改正論議に思う

私も含めて、憲法の議論はややこしいのとタブー視されがちで、あまり話題にしない。また、「憲法」というと条文のことしか頭に浮かばず勉強する気になれない。シュタインやグナイストが言ったような、「憲法」を「国の形」としてとらえる発想がない。

しかしこうして歴史を見てくると「国の形」として非常に重要なものであり、日本の時代の節目の都度、真剣に議論・検討されてきている。それは、イギリスのマグナカルタより遙かに前から行われ、2000年も前から真面目に議論し、日本人らしい表現や考え方でまとめられたものである。日本人が誇るべき「国の形」と思う。世界でもここまで古くから議論している国はない。

現在では、最後には国民投票にかけられるものであるのに、その国民側に理解が全く無い。多分にマスコミがそのように誘導しているのは明らかである。
しかし、マスコミの責任ばかり言っていても始まらない。安倍首相がその議論を投げかけたおかげで、戦後始めて憲法の改正が真剣に議論される事となっている。投票する一人として、少なくともそれを判断する上で必要と思われる知識は身につけたいと思う。条文の文言だけの議論では、憲法を考える上で非常に危うい。ましてや、今の野党・マスコミの感情論だけの議論に乗って投票しては国を危うくしてしまう。正しい知識を得たいものである。

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コメント

    • 大塚 高洋
    • 2018年 3月 29日

    おまとめご苦労様です。
    大学で憲法学専攻のアタクシもびっくりする内容に敬服です。

    現行 憲法の解釈しか勉強しなかったので歴史的観点、経緯は参考になったわ。又、飲みながら議論しましょう❗

    また、のぞきに来ます。では。

    大塚

      • てつ
      • 2018年 3月 29日

      コメントありがと。

      大塚君が憲法学専攻とはびっくり!

    • ゆかり
    • 2018年 3月 30日

    待ちきれず読んでしまいました。

    12月からてつさんの講義を聞きながら学んできたことが綺麗にまとめられていて私も感無量の思いです。
    更に詳しく書いてあるから永久保存版だし、憲法改正についての選挙の際には沢山の日本人にこの記事を読んでもらいたいと思います。

    知らすの国。日本。 その言葉だけでも古事記より以前からの悠久の国の在り方に心震えます。

    ありがとう!

    ゆかり

      • てつ
      • 2018年 3月 30日

      なかなかの力作っしょ。長い歴史をまとめてみました。

      まだまだ、まとめたいテーマはあるので、お楽しみに!

    • ともか
    • 2018年 4月 01日

    主人にブログ紹介しました。
    直接てつさんにご指導いただきたいと。
    お時間あれば、是非よろしくお願いします。

    うちに、以前主人が購入していた真っ新な古事記がありましたよ。
    竹田恒泰さんの現代語古事記。
    読んでみます。
    読んでみます。

      • てつ
      • 2018年 4月 01日

      気に入っていただき、光栄です。多分ご主人は、この記事も楽しめると思うのでよかったら。
      特に添付のYouTube動画がいいですよ。
      http://tetsu-log.com/truenews/001_yamadasi/

      また、ゆっくり語りたいですな。楽しみにしてます。

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