- 2020-2-3
- 特集_日露戦争の背景に迫る!
- コメントを書く
日露戦争の背景【2】日露戦争の頃と明治時代の日本の政治情勢を見る
「日露戦争の背景に迫る!」のシリーズの2回目である。 日露戦争そのものを見ただけでは戦争の全体像はつかめない。今回と次回は、日本の情勢について、特に政治体制についてまとめたい。是非ご覧を。
➡日露戦争の背景に迫る!【1】当時の世界情勢と日露戦争の意義
➡日露戦争の背景に迫る!【2】日本の政治情勢
➡日露戦争の背景に迫る!【3】 大英帝国・ロシアの状況
➡日露戦争の背景に迫る!【4】東アジア情勢
➡日露戦争の背景に迫る!【5】国の存続をかけた「悲壮の決定」と日本の総力戦
➡日露戦争の背景に迫る!【6】「勝利?」日本勝利の真実
➡日露戦争の背景に迫る!【7】戦争後の世界と日本
ページ目次
1.明治時代の45年間の流れ
(1) 明治時代の全体の流れ
日露戦争は45年の明治時代の末期に起こった。明治37年(1904)に日露戦争が起こっている。日露戦争に行く道程は、まさに明治の流れそのものであった。日露戦争を見る上で、日本の「明治の流れ」を知らないと、本質が見えてこない。
下記は明治時代の全体を示した年表である。
上記の通り、明治の時代は大きく二つに分かれる。それは「大日本帝国憲法」発布前と後である。
憲法発布の前は、戊辰戦争もあり西南戦争もあり、まだまだ幕末の動乱の中にあったといっていい。しかし、西欧列強は待ったなしであったため、その頃から国づくりは急を要した。矢継ぎ早に打ち出される新しい改革が出たのがこの頃である。特にこの頃の「版籍奉還」「廃藩置県」「地租改正」は、国の形を変える大変革であった。これをもって「維新」(いしん:これあらたむ)と呼ぶ人もいる。
明治のちょうど真ん中の明治22年(1989)に大日本帝国憲法は発布される。非常に難産の末に発布された大日本帝国憲法で、これにより日本は遂に「近代国家」の一員となることが認められる最低条件を満たした。
この大日本帝国憲法の発布後の明治後半は、特に朝鮮半島、(中国)大陸をめぐって対外事件が起きてくる。そしてそれと同時に、西欧列強とのパワーバランスの中に組み入れられていく期間であった。
(2) 大日本帝国憲法の成立
ページ目次 [ 開く ]
「大日本帝国憲法」は明治22年(1889年)に発布され、翌年から施行となった。当時の日本国内でも評価は高く、先の自由民権運動で政府批判をしていた面々も認めざるを得ないほどの内容だった。
大日本帝国憲法は、海外からは特に衆議院の予算承認権について強すぎるため、「ここまで民主的なもので大丈夫か」、といった指摘があったほど先進的であった。第二次大戦後ひどい言われ方をする大日本帝国憲法(明治憲法)だが、内容は決して他の国に劣るものではなかったどころか、かなり先進的なものであった。
そして、これを作った伊藤博文公を中心とした明治の元勲たちは、これがあくまでスタートであることをよく理解していた。これを守り抜きながら近代国家としての道を歩むことを固く決意していた。実際に、日清・日露戦争などの時に議会との衝突で内閣は何度も倒れ、危機は十分にあった。しかし、しっかり守り抜いたのである。
(3) 「3つの戦争」と近代日本の流れ
ページ目次 [ 開く ]
このような「明治の基礎」があって、近代日本は進んでいく。その進みは、とにかく帝国主義といわれるむき出しの植民地支配をもくろむ西欧列強に対抗するためだった。
明治後半から大正の初期にかけて、日本の未来を大きく動かす3つの戦争があった。
② 日露戦争(明治37年:1904年~)
③ 第一次世界大戦(大正3年:1914年~)
この3つの戦争が10年おきに立て続けに起こったことは、決して偶然ではない。西欧の植民地政策に対抗するには「富国強兵」しかないと、日本はがむしゃらに近代化を進めた。一方で西欧は第二次産業革命を経て、圧倒的な武力で植民地支配にひた走る。大日本帝国憲法の発布だけでなく、日本型の産業革命も経て近代化を進めた日本は、否応なくに、西欧列強と同様に世界のパワープレーの一員となったのである。
2.明治時代の内閣と日露戦争の体制
(1) 明治時代の総理大臣の変遷と覚え方
ページ目次 [ 開く ]
明治時代の首相は14代変更している。初代は伊藤博文公であり、憲法も無い状態から始まり、なんとか近代国家を目指すために内閣を維持してきた。
これを覚える方法として、YouTubeで「竹内睦泰(たけうちむつひろ)」先生から覚え方を教えてもらった。以下の通りである。
と頭を取って覚えるといいと言われて、実際に見てみたら、すっと頭に入った。
すなわち、
「い(伊藤)ま(松方)い(伊藤)」
「お(大隈重信)や(山縣)い(伊藤)」
「か(桂太郎)さ(西園寺公望)か(桂)さ(西園寺)」
と覚える。何度も出てくる人もいるが、これで覚えやすくなる。
顔写真と出身地別に分類したリストは以下の通り。
ブルーに着色したのが「長州閥」、肌色に塗ったのが「薩摩閥」で、着色のないのがそれ以外である。一目で長州勢の多さが目立つ。明治政府は「薩摩・長州による政治」というが、実際には、長州勢が政治を引っ張っていたことがよく見える。薩摩はどちらかというと、軍に人が多い。
また内閣は14回変わっているが、何度も出てくる人が多い。伊藤博文の4回を筆頭に、なんとか内閣をしっかりと運営すべくその経験を踏まえた内閣が組成されていた。人数で言えば7人となる。
(2) 「長州の三尊(さんそん)」の 伊藤博文・山縣有朋・井上馨
ページ目次 [ 開く ]
あまり多くは言われないが「長州の三尊(さんそん)」という言われ方がある。その功績をたたえて、長州勢の3人を指す言葉である。
その3人とは伊藤博文(いとうひろぶみ)・山縣有朋(やまがたありとも)・井上馨(いのうえかおる)の3人である。
しかしこの3人は、どうも明治維新を引っ張った「維新三傑」に比して、小物のように言われることがある。よく言われることとして下記のような言われ方がある。
「女にだらしないのが、伊藤。金にあざといのが、山縣。両方に汚いのが、井上。」
散々な言われ方である。実際に、それなりに3人とも盛んであったことは事実のようである。しかし、それはあくまで彼らのその側面だけをクローズアップしたに過ぎない。歴史の話でよくあることではあるが、人物の印象などその後の人達がどのような思いをもって語るかによって、まったく異なった言葉となり、事実や人物を見る上で誤った印象を与えることが多い。いい方にも悪い方にもである。
私も、この3人はあまりいい印象がなかった。明治維新の西郷隆盛や木戸孝允などと比べても見劣りする印象が強かった。しかし、一人一人の実際に行ってきた功績や事実を見ると、それが如何に浅い認識であったかを思い知らされた。
そして、明治維新の三傑が亡くなった後はといえば、この人が日本を引っ張って言ったと言って過言はない。初代内閣総理大臣のみならず、ありとあらゆる役職の最初は伊藤博文であった。それほど、他に任せることが難しい時代で、自らが切り開いていった人である。大日本帝国憲法の作成において、部下に任せるという姿勢ではなく、自ら学習し自らが憲法の専門家の第一人者になるところまできて初めて憲法を作っている。まさに信念の人であり、日本に与えた功績は計り知れない「巨人」である。
人気はあまりなかったが、大正11年(1923年)に85歳で亡くなるまで、軍及び政界に大きな影響を残した人であった。国民の不人気ぶりは目立ったが、昭和天皇の信頼は厚かったようである。まさに無骨な「軍人」としての側面で、日本を引っ張った人の一人であった。
「長州の三尊」のうち、井上馨(いのうえかおる)だけは総理大臣をやっていない。いろいろな巡り合わせでそうなった人ではあるが、総理大臣はやっていなくとも各内閣において閣僚は歴任しており、また内閣に入っていなくとも数々の役職をこなし、井上なしでは行政は立ちゆかなかった。
実力者であり能力が高かった。伊藤博文も内閣を組閣するときには、井上への入閣をいつも打診しながら進めていた。第一次伊藤内閣の時には外務大臣として就任。このころいわゆる「鹿鳴館」などで、日本の「近代化」といって欧米にならう「欧化政策」をすすめた。その目先には不平等条約の改正があった。信念を持って進め、不平等条約の撤廃に大きく貢献したのである。いろいろ逸話も多い人ではあるが、情熱を持って日本を組み立てていった大功労者の一人であることは間違いない。
大正4年(1915)に81歳で亡くなる。歴史上ではあまり派手に持ち上げられる人ではないが、日本を近代化すべく大きく活躍した人であった。
明治と大正の初期は、この「長州の三尊」が国を大きく引っ張った。伊藤博文公は日露戦争後に朝鮮のハルビンで射殺されるという不幸があったが、計り知れない功績で明治を引っ張った。
また、井上・山縣も一般的な歴史上の評価はあまりされないが、明治の足跡を見るうえで欠かせない重要な役割を果たしていた。
ページ目次 [ 開く ]
(3) 日露戦争時の内閣 ~第一次桂内閣~
ページ目次 [ 開く ]
日露戦争の勝利という世界史に残る戦争を実行したのは桂内閣の時だったが、当時の内閣は有名人が少なく、当時から「二流内閣」とか「軽量内閣」とまで言われるほどであった。
上記が「第一次桂内閣」のメンバーである。これを「軽量級」といったのは当時であるが、歴史を勉強している今見ると、後の功績が大きい人も多く、決して軽量級ではない。まさに「実力内閣」であった。そしてその上に「元老」がいた。元老は、伊藤博文・山縣有朋・松方正義・大山巌・井上馨、のまさに明治政府の「立役者」達だった。
桂太郎(かつらたろう)と西園寺公望(さいいおんじきんもち)が代わる代わる内閣を作った時期があった。両者の頭文字を取って、「桂園時代(けいえんじだい)」と言われる。明治34年(1901年)から大正13年(1913年)の10年近く続くこの時代であるが、非常に重要な時代でもあった。世界史にのこる日露戦争・その後の日韓併合の時代である。彼ら2人による政治の安定があって初めてこの時代があった。
桂太郎(かつらたろう)は長州人である。「長州の三尊」と言われる三名より少し若い世代である。桂にとって井上馨は義理の父にあたる。
調整力に長けた政治家で、政治基盤はあまり強くなかった。根回しに苦労し、ニコッと笑ってポンと肩を叩く「ニコポン宰相」と言われる程、調整を重んじつつ政治を実行していった。
それを見事に切り盛りし日本を勝利に導いたのは、桂太郎の政治手腕なしでは語られない。桂太郎は陸軍の大将であり、児玉源太郎・川上操六と共に、「明治陸軍の三羽烏(サンバガラス)」と言われる人である。
(4) 桂内閣の大快挙「日英同盟」
ページ目次 [ 開く ]
桂内閣の大快挙の一つして、「日英同盟」を挙げないわけにはいかない。当時の世界最強の大英帝国(イギリス)は「栄光ある孤立(Splendit Isolation)」を掲げて、他国との同盟をしていなかった。
そんな大英帝国が、種々の状況はあるにせよ、有色人種のアジアの片隅の日本と同盟を結んだのが「日英同盟(明治35年:1902)」である。これには世界中が驚いた。そしてこの同盟がなければ、日露戦争の勝利はあり得なかった。
この頃、日本の政界では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義、加藤高明らはロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。
結局日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められた。伊藤ももはや日英同盟に反対はせず、明治38年(1902) 1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はソールズベリー侯爵内閣の外務大臣第5代ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスであった。
第一次日英同盟の内容は、
・2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたもの
である。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。
日英同盟の締結の背景にある「一つの事件」について、過去に記述してあるので、是非ご覧いただきたい。日本人が気概をみせつけて大英帝国の信頼を勝ち得た、芝五郎中佐のエピソードである。(➡明治維新とヨーロッパ世界【4】 ビスマルク外交とその終焉・奇跡の日英同盟と柴五郎)
3.明治発足からの帝国議会の状況
ページ目次 [ 開く ]
内閣ばかりでなく、一方の議会(帝国議会)についても触れておきたい。
帝国議会は、大日本帝国憲法とともに明治22年(1889)に衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子に選挙権が与えられる形で発足した。今でこそ「制限選挙」のように言われるが、当時でいえばかなりの先進的な選挙であり、これほどもまでに民意を入れることに諸外国は驚いたという。そして、列強各国が驚くほど議会の力が強い憲法であった。
では議会は、この記事で示した内閣に協力的であったか、といえば、まったく違った。議会は第1回目から大荒れに荒れて、とにかく内閣に反対する勢力として存在した。当時の首相の山縣有朋が、挑発が続く清と朝鮮に対して戦争せざるを得ない状況にあって予算の増額を議会に打診するが、議会は国民の耳のいいことしかせず、まったく議論にならなかった。政府提案の法案10件のうち4件しか通らなかったのである。
「議会制民主主義」というものに慣れていない日本で、野党はひたすら反対する勢力でしかなかったのである。とはいえ、今もそう変わらない気がするが・・・。
日清戦争の時には、「清」は日本は内部分裂しているから勝てる、と思ったほど議会との対立はすごかった。伊藤博文公の内閣は何度も倒れ、また一方で議会の解散も繰り返され、あまりに未熟な議論が続いていた。
しかし一方で西欧列強への警戒・恐怖は、さすがに持っていたようである。特にロシアに対して帝国議会はむしろ戦争を煽っていた面がある。そしてそれは国民も同様であった。
ロシアの状況と日本の国力を知る内閣の上層部や元老は、基本的には開戦には慎重であった。このように、当時の内閣・元老は、単に西欧列強の脅威のみならず、そうした国内情勢とも戦わなければならない非常に難しい状況にあったのである。
4.日露戦争当時の日本の内閣の状況を見て
ページ目次 [ 開く ]
日清・日露戦争当時の内閣の状況は、ここに示した通り、一言でいえば「混乱」であった。帝国議会は全く協力どころか議論がまともにできず、内閣はころころ変わるという状況だった。しかし、西欧列強はどんどん植民地化を進めている、という危機感を、特に内閣及び元老が強く持っていた。
それでも「大日本帝国憲法」を守り続け、「近代国家」の一員としてやっていかなくてはいけなかった。「不平等条約の撤廃」のためにはそれが不可欠だったのと、「近代国家」として進むしか植民地化から逃れられる方法はなかったのである。
そんな難しいかじ取りの中で、内閣・元老は必死に動いていた。
次回にて、日本の動きとして、ロシアとの戦争の準備とその決定について記述したい。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。