奈良・京都の時代の真実を見る【2】「都」と「天皇」から時代をみてみよう!
奈良・京都の時代は、「都」を中心に見る事で更に先人達の歩みに近づける。それは「奈良・京都」のくくりではなく、「○○京」という当時の単位で見る。そして、その「都」と関連付けて天皇陛下の名前を見ていくと、時代が更に鮮明に見えてくる。「都」と天皇の治世をまとめてみた。是非、ご覧を。
➡奈良・京都の時代は平城京と平安京だけじゃない!【1】年表と「地図」から時代を読み解く
➡奈良・京都の時代は平城京と平安京だけじゃない!【2】「都」とその時代の「天皇」から歴史を見る
➡奈良・京都の時代は平城京と平安京だけじゃない!【3】「都」と仏教との関係
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1.奈良・京都(平安)の時代は、「都」と天皇陛下で覚えよう!
奈良・京都の時代は、「都」で見ると見やすいことを前回見てきた。
そしてその「都」に加えて、当時の天皇陛下とその治世を見ていくと、更に理解が深まる。学校で習う歴史の授業では、なかなかこの「都」と「天皇陛下」という流れで物を説明してくれない。
しかし、特に「奈良・京都」のこの時代の政治、そして「都の移動」には、当時の天皇の流れを見る事が不可欠と思う。
この「都」に絡めながら、当時の天皇とその出来事を見ていきたい。
2.実は「飛鳥時代」は、有名な人・出来事が盛りだくさん!
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「奈良の時代」というと、どうしても東大寺の大仏様が印象にあると思う。東大寺であったり大仏殿などは、まさに「平城京」の位置にある。
しかし、実は「奈良の時代」は、その平城京のあたりよりも飛鳥京・藤原京での出来事が多かった。飛鳥京・藤原京は奈良の「明日香村」のあたりにあったと言われる。
教科書で習う人達の活躍は、この「飛鳥京・藤原京」に多くある。そして、古墳や神社などの「証跡」も非常に多い。
特にこの「飛鳥時代」は、まさに日本の歴史の始まりの時代と言っていい。この「飛鳥の時代」にあったことを挙げるといくつも出てくる。
聖徳太子が摂政になった(593年)のも、大化の改新(645年)があったのも、壬申の乱(672年)があったのも、大宝律令が成立した(701年)も、すべて飛鳥時代であり、明日香村の飛鳥京・藤原京での話である。
この時代を象徴する天皇という意味では、とにかく推古天皇(33代)からスタートと考えればいい。聖徳太子を摂政として迎えて、蘇我氏の専横が続くところを見事にバランス良く政治を行った。なお、推古天皇は初の「女性天皇」である。女性が天皇となりワンポイントリリーフとして非常に難しい局面を乗り切った人だった。
飛鳥時代を代表する天皇として次に挙げたいのは、第33代の推古天皇と摂政の聖徳太子の時代から少し時間が進んで、第40代の天武(てんむ)天皇である。天武天皇は、皇后であり後に第41代天皇となる持統(じとう)天皇と共に、「第二の建国」とも言えるめざましい成果を残した。
当時の最強の国であった唐に対して独立した立場を取り、「天皇」という名を名乗ったのも天武天皇からと言われる。神仏に厚く、日本古来の土着の神々を重視し、今の「神道」の基礎を作った。日本の歴史をまとめるべく古事記の変遷を指示し、律令による政治を目指した。まさに、「第二の建国」(第一は初代の神武天皇)といえるすごい功績を残した。それがこの飛鳥の地だった。
また、天武天皇の兄が、その38代の天智(てんじ)天皇である。この天智天皇が行った大化の改新(645年)、そして白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)もこの時代である。
このようにしてみると、いかに「飛鳥京・藤原京」の地で日本の礎が形作られたことが見えてくる。
3.平城京の時代はとにかく聖武天皇(第45代)!
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飛鳥時代を見た後に、「平城京時代」を見ると意外に年表に出てくるような出来事が少ない。
ただ、この時代において象徴となる「東大寺の大仏」を作るように決めた第45代の聖武(しょうむ)天皇はとにかく特徴のある天皇だった。
先回も記したとおり、聖武天皇(第45代)は「都」を3回も移動していて最終的には平城京に落ち着いている。そしてその後、東大寺に「大仏」を作ることを決めるのである(745年)。当時は特に疫病(天然痘)がひどく、世が不安になる中、聖武天皇は特に「仏教」を深く信じそれを広めるべく行動した。
なお、平城京に移動した第43代の元明(げんめい)天皇、にも触れておきたい。元明天皇は第40代天皇の天武天皇の皇女(娘)であるが、夫が早くに亡くなったことから、「中継ぎ」としての即位だった。もちろん女性天皇である。
しかし、「中継ぎ」とは言えない成果を残している。飛鳥の地をはなれ平城京に遷都(710年)したのはこの人である。また、藤原の不比等(ふひと)を重用し、父の天武天皇が作成を指示した古事記を完成させた(712年)。
第43代の元明天皇が藤原京から平城京に遷都し、それを仏教の都として作り上げたのが第45代の聖武天皇だった。古事記が完成し、奈良の大仏が作られる重要な時代だった。「天平文化」とはこの頃の貴族・仏教文化を言う。
4.平城京から平安京への遷都は、桓武天皇(第50代)!
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このように作られた平城京も、遷都されることとなる。有名な「なくよ(794)ウグイス平安京」が次の都と言われるが、実際にはその前に「長岡京(784年)」があった。その遷都を行ったのが、第50代の桓武(かんむ)天皇である。
なぜ、平城京から遷都しなくてはならなかったのか。一般的には、平城京における仏教勢力(南都六宗)が大きくなり政治への影響力が強くなりすぎたため、平城京の地を離れるしかない、と判断されたと言われる。
また、「天智天皇系」の天皇であった桓武天皇は、「天武天皇系」の勢力の力を弱めるため、平城京を変えた、とも言われる。
どちらの説も正しいと思われるが、ここではその内容よりもその遷都が「2度行われた」ということを押さえておきたい。
今の京都府京都市の「平安京」の前に「長岡京」があった。しかしこれに関する史料が乏しかったため、長らく「幻の都」と言われた地である。
桓武天皇が長岡京をわずか10年で遷都したのは、弟の早良(さわら)親王が不遇の死を遂げたたたり、と言われる。また、長岡京は非常に水害に弱いことが判明し苦しめられたことから、遷都を決めたとも言われる。
桓武天皇は、その肖像画が示すとおり、支那(中国)への傾倒が強かったと言われる。また、百済の血を引くとも言われ、いろいろな説を持つ天皇である。大陸の一族と言われる秦(はた)氏とのつながりが強く、そもそも平安京は秦(はた)氏による都、とまでいう研究者もいる。
ここではその議論は置いておいて、桓武天皇が、栄えていた平城京から先ず長岡京(784年)に移動し、そして10年でその地を捨てて「平安京(京都市)」へ移動(794年)した天皇であった、ということを押さえておきたい。
5.平安京(京都)から平城京(奈良)へ戻る動きを止めた嵯峨天皇(第52代)
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少し余談になるかも知れないが、重要な天皇陛下として第52代の嵯峨(さが)天皇に触れたい。
「都」が絡んだ話として、嵯峨天皇は「平安京を守った人」、とも言える。また、平安京初期の天皇陛下として数々の実績を残し、その後の日本の基礎を作った一人だった。
仏教を深く学び育てた人であり、そして意外なところで「日本の桜文化」を作った人、とも言われる人である。
嵯峨天皇は桓武天皇の息子であるが、兄がいたため兄が先に天皇となっている。それが第51代の平城(へいぜい)天皇であるが、病気のためにわずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位し、自分は上皇となっていた。
しかし、その後平城上皇は政治に口を出す事が多くなる。そこには、「平城上皇派 対 嵯峨天皇派」という構図すら出来て大きな対立となる。藤原薬子(ふじわらのくすこ)という平城天皇の愛妾(めかけ)が大きな政治権力を握り、藤原氏の専横が大きくなったことが、この対立の背景にあった。
その中で、平城上皇はなんと奈良の平城京への遷都を詔勅(しょうちょく)として出した(810年)。京都から奈良に戻るというのである。この詔勅とこれに関する一連の動きを政治クーデターとし、「薬子の変(810年)」と言われる。これには、度重なる遷都で民が疲弊するのを憂う嵯峨天皇が従うわけもなく、一気に平城上皇側を武力を用いて制圧した。このときに活躍したのが、日本最初の「征夷大将軍」である坂上田村麻呂である。
嵯峨天皇は、文才もあり深く仏教を愛した人でもあった。最澄・空海もこの時期であり、嵯峨天皇は特に空海に信頼を置いていた。特に後の世に大きな影響を与える平安仏教の一つ「真言宗」の発展は、嵯峨天皇の協力が大きかった。書の達人として「三筆」と言われるが、嵯峨天皇は弘法大師の空海と書道家の橘 逸勢(たちばなのはやなり)と並んで挙げられるほどの達人だった。
また、京都清水寺にある地主(じしゅ)神社の桜をこよなく愛した人と言われる。天皇自らそれを見に行くほどで、それが日本の花見文化の最初、と言われている。
嵯峨天皇はほころびが見えていた「律令」を直し、死刑を廃止するなど改革を行い、抜群のリーダーシップを発揮して30年もの間、治世を行った。平安の基礎、すなわち日本の基礎を作った名君だった。
民を思い、仏教を深く学び、そして日本の桜文化を開いた嵯峨天皇も、「平安京」の主役の一人として知っておくべき天皇陛下と思う。
こうした先人達の努力が、今の日本の礎を築いていった。
6.飛鳥・奈良・京都の時代は「都」と天皇陛下で見ると見えてくる!
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こうして都と当時の天皇と治世を見ていくと、改めて日本の歴史の古さを感じられる。そして、当時からいろいろな政変などがあり、天皇陛下を中心として、あるときは都を変えて、あるときはお寺を建てて、といった大きな政治改革が常に為されていたことが見えてくる。
歴史の学び方はいろいろだが、奈良・京都の時代はまず「都の位置」を理解した上で、天皇陛下に着目していくと非常に理解しやすいと思う。是非、このブログをきっかけにそうした視点で見て欲しい。日本の起源を訪ねることができ、我々の祖先の歩みを見られると思う。
次回は、「都」と共に、「仏教の歩み」を見ていきたい。
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