本地垂迹(ほんじすいじゃく)説から「神道」と「仏教」の日本の歴史を見る
神様と仏様、神社とお寺、非常に身近にある両者だが、この違いや歴史を深く考えることはなかなかないと思う。日本人にとってこれだけ身近にある両者の関係や歴史を、「本地垂迹説」という聞き慣れない言葉と共に見ていきたい。是非、ご覧を。
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1.神様か仏様か? 神社かお寺か?
大人でも「神社」と「お寺」の違いを知らない人も多いと思う。私も深く知らず考えもなかった。日本の歴史を学び、古事記の魅力を知って初めて「神」と「仏」の違いを意識した。
どちらも、私の生活には自然に根付いていた。何かあれば「神様仏様」と願うし、幼少の頃から神社の近くの公園で遊んでいた。なんとなく参拝もしていた。お寺も、観光するときにはなんとなくではあるが必ず訪れる。
しかしそれでも、「神」と「仏」というのを明確に区別して考えることはあまりしてこなかった。なぜかと深く考えることはなかったが、ここで取り上げる「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」と出会い、遙か平安時代から両者の「融合」が図られていたことを知って、「区別していない自分」に対する違和感はすっと消えた気がする。古代から「八百万の神々」すなわち「神社」と、仏教すなわち「お寺」との「融合」を図ってきたのである。
日本人はどちらも平等に大切にしてきた。そして一方で、明治には違う動きもあった。それらを見ていきたい。
2.神社の数とお寺の数は、コンビニより多い!
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神社、お寺はたくさんある。身近にもたくさんあるし、観光に行けばそれを特に意識する。とはいえ、数で言うとどれくらいか見てみたい。
意外に思えると思うが、神社・お寺の数は、それぞれでもコンビニより多い。その3つで比較すると、グラフにあるとおり、一番多いのは神社であり、その次にお寺、そしてコンビニと続く。
確かに多いことは想像できるが、神社・お寺それぞれで、コンビニより多いと言われると意外な気がした。コンビニは日本の誇る「社会インフラ」だが、それ以上の数の神社・お寺が日本を守っているかと思うと、改めてその存在感を感じる。
ただ、神社は減少していることも触れておきたいし、この数には「無人の神社」も多く含まれる。ほとんど廃墟のような姿となってしまった神社も含まれ、実態としてはなかなか表現は難しいかも知れない。
一方で、「神社とは建物そのものだけを表わす物ではなく、自然体そのものも神社とも呼べる」というある神主さんのお言葉を借りれば、神社の減少を憂うことも、数を誇ることも意味はないのかも知れない。
とはいえ、とにかく、コンビニより多いという事実は知っておくと神社やお寺の存在感が分かると思う。
3.「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」と「神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)説」とは?
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本題である「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」とは、平安時代から言われた考え方のようである。Wikipedeiaを借りて分かりやすく説明すれば下記の通りとなる。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え
Wikipediaより
上記の通り、『「神様」は「仏教(仏)」の化身である』として、仏教が日本の八百万の神々の先にあるという考えである。
この「本地(ほんじ)」とは、「本来の境地やあり方」を意味し、「垂迹(すいじゃく)」とは、「迹(あと・足跡)を垂れ下がってくる」という意味で、この場合、「神仏が現れた様」を意味する。
これは仏教側からの考えであり、仏教を「神(神道)」の上とする考え方といえる。まるで「仏教が神を否定している」と取れるかも知れないが、『「仏教」も「八百万の神々」も同じである』、として、神仏の融合を図った考え方とも言える。
そして、鎌倉時代中期にはその反対の考えも言われた。伊勢神宮の宮司である度会行忠(わたらいゆきただ)は「神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)説」を唱え、その名の通り、「神道の神々を本地とし、仏よりも優れた存在である」としている。「反本地垂迹説」とも言われる。
どちらの説にも言える事だが、相手の存在を否定していない。どちらが先かの議論はあるが、「神も仏も同じだった」、とする考えである。そこが日本人の知恵であったように思う。
具体的に「神仏習合」により、この神とこの仏は同じとされるいくつかを挙げてみる。
上記はほんの一例で、諸説あり複数の神様・仏様がそれぞれ「当てはめられて」いる。しかし、上記の例を見ただけでも、神様・仏様の『格』はできるだけそろえられているように見える。日本人のバランス感覚もうかがえる。
4.神と仏の日本の歴史
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このように神社とお寺の論争は、平安・鎌倉の時代からあったことが分かる。「どちらが先(上)か」の議論を多少してはいるが、どちらもお互いを認めた論争であるとも見える。だからこそ、両者は決定的な対立をすることなく、先に表わしたような「神社」や「お寺」の数が併存する形で、日本では根付いていった。
簡単に「八百万の神々」の歴史と、「仏教(仏様)」の歴史を見ると、日本ではどうしても「仏教」の方が後に入っていることは間違いない。もともとインドから発した仏教は、支那大陸(China大陸)を経て日本にもたらされた。
仏教の最初は、第33代推古天皇の時に摂政として活躍した聖徳太子の時代である。推古天皇にしても聖徳太子にしても天皇陛下の血筋のために、本来は「八百万の神々」の中心となる存在である。しかし、推古天皇も聖徳太子も深く仏教を学び、仏教を大事にした。だからこそ、「日本最古の大仏」とされる飛鳥寺を筆頭に、聖徳太子の生まれたと言われる奈良の明日香地方に数々の「お寺」が存在する。そしてその後、奈良時代と言われる平城京において、東大寺などを生み出した大きな「仏教文化」となった。
しかし、聖徳太子はその当時から仏教と日本古来の「八百万の神々」との融合を図っていた。太子は、仏教の教えの重要さを理解しつつ、それを受け入れる日本人の素地として、八百万の神々を祀(まつ)るいわゆる「神道」の精神として「和」を強調したのである。それが「十七条憲法」の「和を以て貴しとなす」である。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)説にしても神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)説にしても、両者を否定しない考えは、その後の日本人が聖徳太子の考えを大切に守りながら論争を進めた証と言えるのではないだろうか。
そしてそれは「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と言われ、現在においても引き継がれている。
5.明治政府に分断された「神」と「仏」~神仏分離政策~
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これほどまでに長い年月の間、「融合」してきた「神」と「仏」を無理矢理分離する動きがあった。明治政府の行った「神仏分離令」である。
この「神仏分離令」の評価は諸説ありここでは深くは述べないが、明治元年(1868年)に発布された「神仏判然令」により、特に「仏教」を否定する動きが広まった。政府は「仏教の否定」を考えていなかったと言うが、基本的には江戸時代の否定を行った物と言われ、それにともない古いお寺や仏像・経典などが、多く消失した。いわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」である。
この運動は大きくは続かず、明治10年(1873年)には、政策は大きく後退した。とはいえ、その爪痕はひどく、奈良の興福寺など多大な被害が今も残っている。明治政府は江戸幕府に代わり天皇陛下を中心とした国作りを目指したため、「神道」というかたちで古くからの日本の伝統を宗教化し「国教」としようとした。その動きは分からなくもないが、過去の伝統を否定したこの運動は、その後の日本に大きな爪痕を残したように思う。
なお、当の明治天皇が崩御されるときに、
と嘆いたとされる。明治天皇も聖徳太子から続く伝統を受け継ぎ、深く仏教を愛した人だった。
6.日本は、神の国であり仏の国!
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こうしてみてくると、神様すなわち神社、仏様すなわち仏教、の歴史を見ると、そのまま日本の歴史となる。特に、聖徳太子が築こうとした「神仏習合」という考え方、そしてそれを受け継いで発展した「神社」「仏教」は日本の先人達の知恵の集まりと思う。
また、明治政府が行った「神仏分離」も日本の近代を見る上で重要な政策と思う。この政策には明治政府に対する批判が多いが、必ずしも明治政府が「仏教の排斥」を目指したとは言い切れない面もある。
なんにせよ、こうした先人達の「神様」「仏様」を巡る議論・動きを見るにつれ、日本は「神の国」であり「仏の国」である、と思う。両者を大事にしてきた先人達の知恵と思いを、今もしっかり受け継いでいきたい。
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