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仏教と日本の歴史とお寺 ~奈良仏教・平安仏教・鎌倉仏教~

法然上人と親鸞聖人

仏教の流れと日本の歴史を見ると共に、それらの今の「寺」を探る

「仏教」というとすぐに「宗教」のイメージだけで見てしまう。しかし、仏教は今も根付いた「生活」としての側面があり、また歴史上「政治」の役割も大きく果たしていた。仏教の流れを知らないと、日本の歴史は見えてこない。特に日本の古代から中世の仏教の流れをまとめた。是非、ご覧を。

1.日本の歴史と仏教の流れ

「仏教についてまとめる」、となるとどうしても宗教の話をする、と思ってしまう。しかし、日本における仏教の流れはそのまま日本の政治・歴史を学ぶことに等しいと言っていい。

聖徳太子の時代から伝わったとされる仏教は、その初期から日本での神社文化であるいわゆる「神道」と融合し、広く日本に広まった。その際、時の権力者と密接に絡みながら発展してきた。日本の歴史を知る上で、仏教の流れを知ることは不可欠と言える。また、仏教の流れを知ると日本各地にある「お寺」の系譜を知ることができるので日本の観光をより充実させてくれる。

日本の歴史を見ると仏教の各宗派と政治・経済の歴史は切っても切れない関係にある。仏教の流れを知らないと、歴史を正確に見ることが出来ないと言っていい。「寺社勢力」というものを見ていくことは、当時の権力者や政治の世界及び経済を理解する上で、不可欠なものといえる。

日本の仏教の流れを知る上で、3つの流れを押さえることで、大きく理解が進む。

日本の仏教の「3つの流れ」

① 「奈良仏教」と呼ばれる奈良時代の「南都六宗なんとろくしゅう
② その後の京都での「平安仏教」と呼ばれる、「最澄・空海」の仏教
③ 平安時代後期に起こった「鎌倉仏教

それぞれ、その政治の時代の変遷に大きく関与している。①の「奈良仏教」と言われる「南都六宗なんとろくしゅう」の「南都」とは奈良の「平城京」を指す。まさに平城京を中心とした奈良時代に栄えた仏教の宗派である。
奈良時代は、平城京ができた和銅3年(710年)から、京都に「平安京」として遷都した延暦えんりゃく13年(794年)の80年超の時代を指す。平城京が確立したのは、女帝の元明天皇(第43代)の時代であり、日本の第二の建国とも言える天武天皇(第40代)・持統天皇(第41代)から程なくして始まっている。

そして、時代が奈良から京都に移ったのが、「なくよ(794)ウグイス平安京」で覚える「794年」の平安京への遷都である。
第50代の桓武天皇により行われた奈良から京都への遷都(正確にはその間に「長岡京」があるがここでは割愛する)が行われた背景には、「寺社勢力」と言われる仏教勢力の力を落とすことがあったと言われる。それほどに仏教勢力は無視できる存在ではなかった。

飛鳥時代~奈良時代の都
飛鳥時代~奈良時代の都

その京都の平安時代に力を持ったのは「最澄・空海」が開いた「天台宗・真言宗」の「二宗」である。平安二宗」とも言われるこの二宗派を「平安仏教」とも呼ぶ。従来の南都六宗なんとろくしゅうを大きく改革したこの2つの宗派が、平安時代の仏教の中心だった。

平安時代は、延暦えんりゃく13年(794年)から文治元年(1185年)の約390年もの長きに渡る。その後半期は武士の台頭が始まり日本は大きく変化をする過程に入ってくる。世が乱れる中で仏教も大きな変化を果たすのが、この平安末期から鎌倉初期の時代である。

浄土真宗 西本願寺(京都)
浄土真宗 西本願寺(京都)

この頃に生まれたのが、大きく6つの宗派でこれが後に「鎌倉仏教」と呼ばれる。それまでの仏教は庶民を対象とするより、寺の修行僧や一部の為政者のものであった。庶民にまで仏教が広まったのは、この鎌倉仏教からである。

そして現在の日本の仏教は、まさにこの「鎌倉仏教」の流れをくむのがほとんどである。特に現在の日本で一番多い「浄土真宗」も、まさに「鎌倉仏教」の一つである。

2.奈良時代の「南都六宗(奈良仏教)」

教科書的には、奈良時代は「なんと(710)見事な平城京」の710年から、「なくよ(794)ウグイス平安京」の794年の約80年を指す。実際には、平城京と平安京の間には「長岡京」があり、それ以外にも都はあるが、ここでは一般的に言われる「奈良時代」で話を進めたい。

南都六宗の本山
南都六宗の本山

平城京とは、すなわち現在の奈良市のあたりに立てられた都で、女帝の「元明天皇(第43代)」の時代に建てられたものである。この「平城京」の時代が「奈良時代」と呼ばれている時代で、この頃、仏教が大きく花開いた。
その頃に勢力の大きかった仏教の宗派の6つを後世の人々が「南都六宗」と名付けた。「南都」とはその後に長く続く京都の平安京からみて「南」と言うことである。
南都六宗は以下の通り。

奈良仏教「南都六宗」

法相宗(ほつそうしゅう):道正が伝える。現存し、興福寺・薬師寺が本山
俱舎宗(ぐしゃしゅう):法相宗の一派(付宗ぐうしゅう
三論宗(さんろんしゅう):元興寺、大安寺が本山。
成実宗(じょうじつしゅう):三論宗の一派(付宗ぐうしゅう
華厳宗(けごんしゅう):良弁が開祖。東大寺が本山
律宗(りつしゅう)鑑真がんじんが開祖。唐招提寺とうしょうだいじが本山

奈良仏教は上記の「南都六宗」を中心に、政治と密接に関わりながら発展していった。
華厳宗の本山と言われる東大寺の「大仏」はまさにこの頃に建てられている。聖武天皇(第45代)の時代(724年~749年)に建立された大国家プロジェクトであった。

3.腐敗の進む「奈良仏教」と桓武天皇

飛鳥の時代から仏教の伝来はあった。それが奈良時代には、日本固有のいわゆる「神道」と結びつきながら「南都六宗」として大きく発展した。

奈良市と南都六宗の本山
奈良市と南都六宗の本山

「奈良仏教」はその名の通り、現在の奈良市のあたりを中心として栄えた。そしてそれはそのまま「平城京」の発展と同時であった。
当時の仏教は、その後の「平安仏教」「鎌倉仏教」のような人々の救済を主眼としたものではなく、学問の派閥としての存在だったと言われる。

しかし、そうした仏教の宗派は政治と密接に結びつき、非常に大きな勢力となっていた。東大寺の大仏に象徴されるように、その力は絶大なものとなっていく。それに伴い、そうした権力にまつわる腐敗も進んでいった。

第50代天皇陛下 桓武天皇
第50代天皇陛下 桓武天皇

こうした仏教勢力の政治への介入と腐敗から、仏教と政治とを切り離して正しい政治を行おうとしたのが、桓武天皇(第50代)である。桓武天皇は遷都を2度も行っている。

【平城京(奈良)】和銅 3年(710年~)
   ⇩
【長岡京(京都)】延暦 3年(784年~)
   ⇩
【平安京(京都)】延暦13年(794年~)

と、奈良から北へ移動している。この遷都の理由は種々あるが、その最も有力な一つが、「南都六宗」の影響力が強すぎる「平城京」からの脱却だった。政治と宗教を分けて治世を行おうとする桓武天皇にとって平城京からの遷都は必須だったのである。

4.奈良仏教から次への道を作った「最澄・空海」の「平安仏教」

都は、奈良の「平城京」から京都の「平安京」へと移った。平安京の時代は「平安時代」と言われるが、その頃に大きな勢力となったのが、2つの仏教宗派であった。

それが最澄」(767年~862年)が開いた「天台宗」と、空海(弘法大師)(774年~835年)が開いた「真言宗しんごんしゅうである。「天台宗」の本山は、後の世に大きな影響を与える「比叡山延暦寺」である。そして「真言宗しんごんしゅう」の本山は、京都の東寺とうじである。

平安二宗(天台宗と真言宗)の本山
平安二宗(天台宗と真言宗)の本山

なお、真言宗で有名な高野山の金剛峯寺こんごうふじは真言宗の一つの宗派の「高野山真言宗」の総本山である。

最澄・空海は同時期に生きた人で、最澄空海の先輩にあたる。後の世では最澄の「天台宗」の方が大きな影響力を持つが、当時は空海の「真言宗しんごんしゅう」の方が大きな力を持っていた。
真言宗しんごんしゅうは政治と密接につながり、また、開祖の空海は天才とも言われた人物だった。その記憶力や語学力が群を抜いており、早くから才能が見いだされていた。「真言宗しんごんしゅう」とはその名の通り「真言しんごん」を聞くことであるが、それを聞けたのは現在に至るまで空海ただ1人、と言われる程である。空海は突出した才能で真言宗しんごんしゅうを率いたが、必ずしもその後は大きな勢力とならなかった。

一方の最澄「天台宗」は開祖の最澄の頃にはそれほどの勢力にならなかったが、その後に絶大な影響を与えた。現代の仏教にそのまま通じる「鎌倉仏教」はすべてこの「天台宗」の本山である「比叡山延暦寺」から起こっている。<「鎌倉仏教」が現代にまで根付いていることを考えれば、如何に最澄の影響が大きかったか想像できる。

5.平安の終わりと共に生まれる「鎌倉仏教」

(1) 鎌倉仏教とは

現代の日本において「仏教」と呼ばれるのは、ほぼ大多数が「鎌倉仏教」に由来する。鎌倉仏教と呼ばれる宗派が生まれるのは、長く続いた平安時代の末期で武士が台頭し戦国の世に入る時代である。平安時代は390年もの長きに渡り続いたが、その後期には疫病の蔓延・武士の台頭に伴う社会の変革などが目立ってきた。そうした背景で生まれてきたのが「鎌倉仏教」で、西暦1100年~1200年頃である。

そして特筆すべきは、この鎌倉仏教はすべて「比叡山延暦寺」から興っていることである。すなわち鎌倉仏教と言われる仏教の宗派はすべて、最澄の開いた天台宗を基礎にして生まれているのである
比叡山延暦寺は今のイメージで言う「お寺」ではなく、学問の場としての役割があった。そこで修行する僧はそれぞれの思いを持って仏門の勉学に励んでいたのである。延暦寺を訪れるとわかるが、その規模はかなりのもので一つの「町」と言ってもよい。そこで、後の鎌倉仏教を生み出す学問が磨かれていったのである。

(2) 鎌倉仏教の覚え方

鎌倉仏教は大きく分類すると6つある。

鎌倉仏教の主要宗派
法然ほうねんの「浄土宗」(じょうどしゅう)

親鸞しんらんの「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)
日蓮にちれんの「日蓮宗(法華経)」(にちれんしゅう)
一遍いっぺんの「時宗」(じしゅう)
栄西えいさいの「臨済宗」(りんざいしゅう)
道元どうげんの「曹洞宗」(そうとうしゅう)

教科書等で覚えている人もいると思う。ここではあくまでその6つの分類を述べるにとどめるが、その教えは今の日本人にも大きく影響を与えている。宗教色が薄れた現在でも「信じるのは仏教」と言われる人は、ほとんどがこの鎌倉仏教のどれかに入る。特に「浄土真宗」は葬式の時に強く意識する宗派と思う。

鎌倉仏教
鎌倉仏教

上記の表の通り、この6つの宗派は3つに分類分けが出来る。

① 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を共通とする「浄土宗系」(浄土宗・浄土真宗・時宗
② 「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を唱える「法華教」(日蓮宗
③ 「」による修行をする「禅宗系」(臨済宗・曹洞宗

この3つの種類で覚えると6つの宗派が見えてくる。そして、その宗派はそれぞ現在の日本にも深く根ざしている。

(3) 鎌倉仏教の各宗の総本山

鎌倉仏教は上記のとおり6つを柱に覚えると覚えやすい。そしてそれぞれの「総本山」を知ると、更に覚えやすくなる。

鎌倉仏教の総本山
鎌倉仏教の総本山

ただし、「総本山」といってもその宗派の中でもいろいろあるので、上記はあくまで一例としてみて欲しい。
とはいえ、「お寺」と「鎌倉仏教」をつなげることで、時代背景とその「お寺」の由来が見えてくる。「鎌倉仏教」の6宗派とその「本山」を覚えることは、日本を巡る上で、一つの重要な「知識」となると思う。

(4) 鎌倉仏教の覚え方「法然と親鸞」「栄西と道元」

鎌倉仏教の覚え方のもう一つに、それぞれの「開祖」の関係を見ると親しみやすくなる。ここでは、二つの開祖の関係を見てみたい。

法然上人と親鸞聖人

法然(以下「法然上人ほうねんしょうにん」)と親鸞(以下「親鸞聖人しんらんしょうにん」)は師弟関係にあった年齢は40歳離れていて、法然上人ほうねんしょうにんが先輩にあたる。法然上人ほうねんしょうにんの生まれは西暦で1133年で、親鸞聖人しんらんしょうにんの生まれは西暦で1173年である。このころの世相と言えば、保元の乱が1156年、平治の乱が1159年とみればわかりやすい。まさに武士の台頭が始まった頃だった。
現在では親鸞聖人しんらんしょうにんの「浄土真宗」が日本人の最も親しみやすい仏教となっている。親鸞聖人しんらんしょうにんは比叡山にて修行しても世を救うこと道が見いだせず、そこで出会った法然上人ほうねんしょうにんに弟子入りしたのが29歳の時だった。法然上人ほうねんしょうにんの考えに深く傾倒しつつ、自らの道を「浄土真宗」として切り開いたのが、親鸞聖人しんらんしょうにんであった。

法然上人と親鸞聖人
法然上人と親鸞聖人

禅宗の2派である臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅうの開祖の人となりとその動きは大きく異なる。まず年齢は臨済宗の開祖「栄西」の生まれが1141年で先の法然上人ほうねんしょうにん親鸞聖人しんらんしょうにんと近い。一方の曹洞宗そうとうしゅうの開祖「道元」は1200年の生まれで、栄西より60年は若い。
栄西も多分に漏れず延暦寺にて天台宗の修行をしていた。しかし、そこでの腐敗しきった状況を目の当たりにして、現在の天台宗への疑問を感じる。そののちに宋にわたり、「臨済宗りんざいしゅう」という宗派を立てることになる。
臨済宗りんざいしゅうは徹底的に京都の天台宗(比叡山延暦寺)から敵視され迫害を受けた。
結果的に栄西は鎌倉にその拠点を移したが、それが功を奏した。当時の鎌倉幕府との関係を確立し、政治のバックを得て臨済宗りんざいしゅうは大きな力を得たのである。そののち京都に「建仁寺」を立てるが、それは鎌倉幕府の第2代将軍の源頼家の後ろ盾を得たことによるものだった。このように栄西は非常に精力的に活動し、臨済宗りんざいしゅうは時の政権と密接に関係しながら発展していった。京都五山」「鎌倉五山」と言われる臨済宗りんざいしゅうを代表するお寺を建立できたのも、栄西の政治的センスからなるものであったと言える。
一方の道元は、栄西の臨済宗りんざいしゅうから学び、そこから曹洞宗そうとうしゅうの開祖となった。栄西とは違い、とにかく「禅」の道を究めんと、非常にストイックな修行で知られたという。現在の曹洞宗そうとうしゅうの本山の「永平寺えいへいじ」はまさにそうした道元のストイックな修行をなすためのお寺として、現在も有名である。

栄西と道元
栄西と道元

(5) 鎌倉仏教と現代

鎌倉仏教はその後も大きく変化を進めていくが、この6つの流れは大きく変わることはなかった。現在の日本の仏教の大半は、この鎌倉仏教に由来する。「仏教徒ではない」という日本人は多いが、日本の冠婚葬祭を見れば仏教が深く根付いていることは明らかである。

仏教の分類(Wikipediaより)
仏教の分類(Wikipediaより)

特に親鸞聖人しんらんしょうにんの「浄土真宗」は日本人の冠婚葬祭において、今も脈々と生きている。死者を弔うときに取られる方式が浄土真宗の方式であることが、まさに仏教の精神が今も生きている証拠と言える。

6.仏教の歴史を見て

「宗教」というと、とかく日本人は敬遠しがちである。

しかし、今ある「お寺」や歴史を見ると、日本人の歴史・生活・考え方に深く根付いているものであることに気づく戦国時代に織田信長が散々手こずった「一向一揆」は浄土真宗の本願寺派によるものである。

単に観光で訪れるだけではなく、お寺の由来や宗派も知っておくとより一層楽しく観光が出来ると思う。是非、ご参考に。

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